不幸は束になって
しかし、それで問題がすべて片づいたわけではなかった。しあわせは重なりあってきてくれないが、不しあわせは束になってやってくる。不景気になると、ビルもガラ空きになったが、さきに述べたように、コンサルタント業務も向こうから断られるようになって、私は事業の縮小を余儀なくされた。
あとになって考えてみると、この程度のピンチはたいしたことではない。石油ショックのあとになると、スケールの大きくなった分だけ衝撃も一段と大きくなったが、それはもっとあとのことで、小さいときは小さいなりに衝撃を大きく感ずるものである。私は経費の節減をするために、自分のオフィスもしめてしまうことにした。
学生時代の体験によれば、小遣いのないときは下宿へ帰って、布団をかぶってじっと寝ているに限る。そのデンでいけば、オフィスをたたみ、従業員を削減すればよい。
私はコンサルタントの事務所で働いていた部下たちを、会計の女性と運転手だけを残し、あとはすべて友人たちに頼んでひきとってもらった。また銀座で火事にあって焼け出された知人が、ちょうど事務所を探していたので、オフィスをそっくりその人に貸して、自分たちは自宅に引っこんだ。家賃を十二万円もらえるのと、事務所経費や人件費が四、五十万円節約できたので、どうやらお金はまわるようになり、あとはじっと辛抱強く好機の到来を待つことになった。
その時期は、私にとってたまたま四十一歳から四十二歳にわたる男の厄年の時期にもあたっていた。不景気のときや悪運のときはじっとしているに限るといったが、本当に何もしないでじっとしているのは死ぬよりつらい。
私には、ミーハー的な趣味があって、かねてから歌謡曲に興味を持っていたし、不況のときは歌がよくはやると思っていたので、よし、ひとつ歌謡曲でもつくってやれ、と思い立って一年間、歌謡曲の歌詞をつくって暮らした。つくった曲は百曲以上にものぼったが、レコードになったのは三枚で、三枚のうち橋幸夫君の「恋のインターチェンジ」と、三沢あけみさんの「南国の花」の二枚がヒットし、打率が意外に高いというので、あわやビクターの専属作詞家にされるところであった。
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