第五章 苦難続きの台湾での事業 養鰻をネタに一億円持ち逃げされる
二十四年ぶりに故郷へ帰る
昭和四十七年四月二日に、私は二十四年ぶりに生まれ故郷の台湾の土を踏んだ。松山の飛行場に着くと、百人以上の報道陣が待っていて、タラップを下りる私をわっと取りかこんだ。
私は首からレイをかけさせられ、貴賓室に連れて行かれて記者会見に臨んだ。四半世紀も台湾語を喋る機会がなかったので、記者たちの質問に対して、私は言葉を一句一句思い出しながら、かみしめるように答えるのがやっとであった。
私が帰った当時の台湾は、国連脱退のショックから脱けきらず、随所に掲げられたスローガンも「自立自強、処変不驚」(自立自強、変二処シテ驚カズ)という内容のものであった。
無理もない話で、共産軍に追い落されて生命カラガラ台湾に逃げ込んだ人々にとって、台湾は最後のトリデであり、ここから再び亡命のできる先はアメリカくらいしかない。それも政府の要人たちならいざ知らず、一般の人々にはできない相談である。
共産主義及び共産党が中国大陸を席捲したことについては、それなりの必然性があるし、大きな犠牲を伴ったが、それなりの歴史的な役割もある。しかし、共産主義が目のカタキにしている人々や、共産主義に馴染まない人々がこの世に立錐の余地もないというのもリクツに合わないことである。
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