成育が早い台湾鰻
台湾は私の生まれ故郷だから、人は私が台湾のことをよく知っていると思うかもしれない。普通の日本人に比べたら、もちろん、私は台湾語もできるし、台湾の人たちや中国から来た人たちの気質にも通じている。
しかし、二十四年も故郷を離れているうちに、私は横井庄一さんか、小野田少尉になってしまっていた。私の知っている台湾は、私が子供だった時分の台湾であり、戦後二年間ばかり台北に住んだことがあるが、その頃の台湾はまだ混乱のただ中で、昨今の台湾社会の気風と一味も二味も違っていた。二十四年ぶりに帰った台湾は見る物、聞く物、みな新しく、しかもそれを昔の物差しと、日本人と同じ気風で測ろうとするから、私自身あらためてカルチャー・ショックを味わわされる破目におちいった。
台湾の新聞という新聞が一ページ大のスペースを割いて私の帰国を報じた。国民政府は今まで私の存在を隠そう隠そうとしてきたが、今度は私を精神安定剤として利用する目的もあったから、私を日本で最も成功した華僑として大々的に報道した。私は「株の神様」であり、「日本で幾多の事業をやっている資産家」であり、また「外国人で一番はじめに日本の著名な直木賞をもらった作家」でもあると、あることないこと洗いざらい掲載した。私が見ても、誇大広告の観があった。
多分、そのせいであろう。私が台北の飛行場に到着するたびに、私は多くの人々に取り巻かれ、台湾で新しい仕事に投資しないかと次々と話を持ち込まれた。あとになって考えてみると、あのとき、話に乗ればうまくいったのかもしれない事業もあった。しかし、話に乗ったためにひどい目にあわされた仕事のほうがずっと多かった。
その中の一つに鰻の養殖というのがある。鰻の養殖は日本では浜名湖の周辺が有名であるが、その浜松の人たちが台湾へ来て鰻の養殖を教えた。
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