前川正博さんはこうして
福祉の国で、国にたよらずに根をおろしました

第47回
モハメドの説教

私の以前の仕事場のプレイ・グランドに
モハメドというエジプト人の若者が遊びに来ていました。
穏やかで礼儀正しいその子がある日私に言いました。
「ヒロは親切だが、
人は親切で良い人というだけでは充分ではない!!」
そしてイスラム教の礼拝の仕方などを私に話して聞かせました。
「礼拝が始まったら襲われても、
殺されても礼拝を続けなければならない」
私をイスラム教徒にしたかったわけではなくて、
丁度宗教に目覚めた頃らしくて
誰かに話して聞かせたかったようです。
その話も「本当かなあ」と思いましたが、
その頃は興味もなかったし、
何か言って侮辱と取られても面倒なので黙っていました。
深入りした質問をして、ややこしくなるのもしんどかったのです。

ところが宗教の教えは、
信者でもないヨーロッパ人にも伝統として根付いて、
今も行動に影響しているようなのです。
ほとんど無自覚ですが、我々の考え方も
論語やその他の昔の人の言葉や行動に影響されているようです。
しかし彼らは我々と違って
それが聖書やコーランに由来する、と言えるのです。
私も必要に迫られたせいもあって、
日本の事も少しですが勉強するようになりました。

ヨーロッパの国に住んでいると、歴史としての宗教を知らないと
わけの解らない場面にしばしば出くわしました。
学生の頃に実存主義の本などを読んで
「もう死んだ」かと思っていた宗教が
現実にはまだ生きていました。
そこで解説書を読んでみると、
旧約聖書というのはユダヤとキリストとイスラム教徒の
共通の聖典だとの事です。
もっとも“旧約―古い契約”という名は、
ユダヤ人の本にキリスト教徒側が勝手に付けたものなのだそうです。
解説書を読んでやっとそんな根本的な事を知ったのですが、
それからいくつかの本を読んでみました。
弱い者や困っている者を助けるための規則が、
細かいところまで書き記されている部分がありました。
それは旧約聖書を聖典とする現代の人の考え方に
確かに繋がっているのが解りました。
ミレーの「落穂拾い」という題の絵も
「穀物の一束を畑に忘れたら拾いにいかずに貧しい者に取らせよ」
という掟と
それを定めた神様への感謝を描いたもののようですね。
美術館に行っても、題材を聖書からとった古い絵が
面白く見られるようになりました。
相手の考え方の元が少し解って日本の事も少し解ったので、
それからはもっと話が出来るようになりました。


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2004年9月21日(火)

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