前川正博さんはこうして
福祉の国で、国にたよらずに根をおろしました

第295回
オウム真理教を知って

エルサレム見学に向かう途中で、
ローマに滅ぼされた古代のユダヤの王の廃墟を見ました。
最後はそこで全員が自殺したそうです。
見終わると、ガイドの高齢のユダヤ婦人は言いました。
「ローマは消え、ユダヤは残りました」
マサダというその城砦跡見学の際の、お決まりの言葉のようです。
「ユダヤは残った」と自分に言い聞かせて、
腹の虫をおさめるのでしょうか。
”ローマは消えたといっても末裔は続いているだろうし、
続こうが消えようが個人には関係ないのではないか?”
と、私は思ったのですが、とても口にはだせません。

ユダヤ人は長時間の宗教教育を受けます。
数千年前の受難の日を忘れるどころか、
記念日として行事を行っているのがユダヤ人です。
日本人なら原爆の受爆記念日を作って毎年再現して、
戦争の歴史を数千年に渡って伝えて行く、そんな感じでしょうか。
ユダヤ人は良く分かりません。
自分がその民族の一員だったら、
と設定して想像することができないのでした。

ところが、オウム真理教というのが出現して、
原理主義でさえ人事ではないと感じられるようにました。
あれだけ明白な証拠が出ても、
インチキ教団が存続して信者が存在する現実を見て、
日本人も同じなのだと悟りました。
宗教的にのんびりした国に生まれても、
こういう宗教に引っ掛かる、というのは恐怖であります。
しかし、これで信仰の民、全般に対して違和感がなくなりました。
「自分も条件が揃えばあのようになり得た」
と、いう恐怖を伴った一種の親近感です。

人間は何かを信じこみやすい動物で、
そして、深く信じると簡単には元に戻りにくいもののようです。
脳細胞が宗教的に出来上がると、
訂正を受け付け難くなってしまうということでしょうか。
「人間は国を問わず、どうにでもなれる。
”ひとごと”いうものは無い」
と、いうことの再確認ができました。

「我疑う。ゆえに我あり」という人間は、同時に
「我神を疑わず。ゆえに神あり」と、いう人にもなり得る、
ということなのでしょうか。


←前回記事へ

2005年9月1日(木)

次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ