死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第15回
サービスしすぎる神様たち

信仰厚き人から見ると、
ややふざけすぎに見えるかもしれないが、
確かに色女の結婚式に参加してみると、
キリスト教式が現代人の気質にぴったりする面を
もっているように思われる。

私は神前結婚の媒酌人をつとめたこともあり、
花婿花嫁のお供をして神社までお参りに行って
三三九度の酌み交わしに立ちあったこともある。
あれはあれでなかなか厳粛なもので、
結婚式というものは、民俗や国境をこえて、
どこの国でも
おごそかな一面を持っているなあーと思ったものである。

しかし、エレキやマンガやスポーツカーで育った子供たちは、
一種の厳粛さを感じさせるという意味では、
十字架の前で、「主と精霊の名において」
「あなたは××子さんを妻として愛しますか」ときかれ、
親戚縁者の前で「ハイ」と答える方が納得が行くというのも、
理解できないことではないのである。

おかげで、長女の結婚式の時は、花嫁の父として、
娘の手を握り、オルガンにあわせて
ステップを踏まされる破目になり、
足並みが揃わなくてとんだ恥をさらしてしまった。

何千人の聴衆を前にしても、少しもあわてない私が、
娘に言わせると、すっかりあがって、
娘のひじを力一杯押し上げながら
繊椴の上を踊るように歩いたそうである。

花婿の父の場合は、ステップを踏まないでよいので、
もう二度と笑われる心配はなくなったが、
それでも結婚式の度におかしく思うのは、
神前結婚でもキリスト教式結婚でも、
どうして神様の方が
ホテルの中に出張するようになったのだろうかということである。

神様がもし絶対者ならば、
人間の方が神の御社に参上して結婚のお許しを得たり、
結婚の報告をすべきが筋道である。

ところが、この頃は、
神様もだんだん話がわかるようになったと見え、
人間様と妥協するようになり、
至れり尽せりのサービスに励むようになった。
ちょうど世の親たちが「話のわかりすぎる親」に
なりさがってしまったようなものである。

その点は、カトリックの神様が
いまも頑なに出張を拒否し、
威厳のあるところを見せているが、
「お賽銭をあげてくれる
大事なスポンサーの都合にあわせてくれようともせず」
また「一度、結婚したら、たとえ別居しても、
また別の愛人と世帯を構えるようになっても
断固として離婚を認めない」頑迷さは、
いまの若者たちには人気がないようである。

まあ、カトリックの神様みたいに頑固すぎても、
人気投票に負けてしまうが、
神様の方もあまり
「話がわかりすぎて」何でも唯々諾々と受けあっては、
かえって人間共から悔りを受けるのではあるまいか。

人手不足で出前を拒否するソバ屋さんも多くなったことだから、
神主さんも牧師さんも、
神様のご出張はお断りということに
営業方針をかえた方が品位を保つのに
役立つのではなかろうか。





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2012年12月6日(木)

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