死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第72
深沢七郎さんの葬式

荘子が自分の考えをはっきりさせるために、
わざわざ孔子を引き合いに出しているくらいだから、
孔子のアンチテーゼとしてのみ荘子が存在することが
おわかりいただけるであろう。

世間の大部分の人間は大抵、「道に生きよう」と努力する。
「道に生きる」とは、
現代風に言えば、「他人に迷惑をかけずに、
生き甲斐のある生活をする」とでも言ったらよいだろうか。

しかし、そういう生き方をする人でも、
「自由奔放に生きたい」
「世間のきずなにがんじがらめにされたくない」
という気持は持っている。

それを表面に出すか出さないか、だけのことで、
誰もが孔子の徒であり、
なおかつ荘子の徒でもあるということができるのである。

したがって、ある人は、世間の常識に従って
世間並みの葬式に甘んじるし、
ある人は、どうしてもガマンがならなくて
型破りの葬式をやりたがる。

実は葬式は、その人の人生観や思想を反映するものであるから、
「泣いて野辺の送りがすんだら、あとは遺産争い」
というパターンの承服できない人は、
どうしても荘子の肩を持ちたくなる。

中国人の葬式に参列したことのある人なら、おわかりと思うが、
棺桶の先導役を楽隊がやり、道化師が踊りながら後に続く。
その後ろに棺桶、そのまた後に野辺送りの人たちが続く。
日本人が見ると、ギョッとして、思わず我が目を疑うが、
孔子と荘子の折衷案をとった葬式だと思えば、
そんなに違和感はない。

ただ両者に共通していることは、
坊さんの世話にならないことである。

道教の場合は、道士と呼ばれる連中が葬儀を司っているが、
これとて堕落の程度においては、
坊さんに負けないから、
二千何百年昔に、
荘子が表明した生死観と程遠いものであることは確かである。

日本でも、鶴屋南北という『東海道四谷怪談』の作者が、
自分の葬儀の模様を台本に書いている。
棺桶の中から死人がヒョロヒョ口と立ち上がり、
お世話になった人たちに挨拶のセりフを喋る。

最近で言えば、深沢七郎さんが
「自分の葬式をやるから、集まれ」と出入りの者を集め、
黒いリボンをかけた自分の写真に
自分が鎮座してお経をあげている。

テープに吹き込んだお経が終ると、
後ろへ向きなおって、
「今日はご多忙のところを
わざわざおいでいただいて有難うございました」
としんみりと挨拶をしたと、
弟子筋にあたる嵐山光三郎さんがその時の模様を
エッセイに書いているが、
このエッセイがまた出色であった。

深沢七郎という人は、
「檎山節考」以来、私が最も愛読している作家の一人であるが、
文章に凄みがあるだけでなく、
生活そのものに鬼気が漂っている。
だからこそ自分の葬式を生きている間にやることを
思いついたのであろう。
香典を生前にもらうことを実行した人に比べて、
更に一段と役者が上だと言ってよいだろう





←前回記事へ

2012年2月17日(日)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」

ホーム
最新記事へ