死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第100回
譲れない一線

貧乏の中から身を興したので、
良人は妻に与える生活費はかなり切りつめた。
インフレになってもなかなか値上げ要求に応じたかった。
妻が激しく要求すると、服や靴を買う金だけは、
そのたびに別勘定で支払うことにした。
その金額は生活費をオーバーすることもしばしばであったが、
五十歳、六十歳になって何を買うのにも、
子供のようにいちいち亭主に手を出してもらうのでは、
女の自尊心は傷つけられる。

だから、家計はすべて妻に任せている人はよいが、
商人や事業家のように
財産に対する主導権を良人の方が握っている人は、
妻にある程度のまとまった財産を与えるか、
お金の使える道を開いてあげないと、
ストレスは必ず累積する。
長い間に、それが爆発するまで溜まってしまうのである。

亭主の方は努力して
年に億の金を稼ぐ金持ちの仲間入りをするようになった。
付き合う人も昔とは違ってきた。
奥さん同伴で集まって順番にご馳走をしあう分は、
ツケを亭主に回せばよいが、
他の奥さんたちの指輸はキラキラするほど大きいのに、
自分だけは安物の宝石しか持っていない。

妻は良人にダイヤを買ってくれと要求する。
良人には新婚の時に傷つけられた記憶が残っているから、
世界旅行に行く切符でも、
ベンツに運転手をつけることでも何でも簡単に聞いてくれるのに、
ダイヤだけはガンとして受けつけない。

夫婦で言い争った末に、
亭主の方がうちの女房のところへ電話をかけてきて、
「あなたが大きなダイヤをはめているから、
うちで大喧嘩になるのだ」と嫌味を言う。
うちの女房も黙ってはいない。
「あなたがケチなことが私と何の関係があります?
お金がないわけでもないのに、
ダイヤくらい買ってあげたらよろしいじゃありませんか?」
年にーぺんや二へんはそんなことで争うので、
とうとううちの女房は友達と一緒の時は
指輪などはめなくなってしまった。

ある時、香港の友達が来て、
その人の奥さんが豪華な腕時計をしていたので、
奥さんの方が「この次、おいでの時に、
私にもひとつ買ってきて下さいね」と頼んだ。
そうしたらご主人が、
「お金は誰が払うんだ?オレは知らないよ」
とお客さんの面前で言い放った。
皆の前で私に恥をかかせた、と奥さんの方がロもきかなくなった。

こういうととが度重なって、
とうとう別れ話になり、
いよいよ抜きさしならない最悪の状態になってしまった。
「別れたかったら、別れれば」と子供たちは至って冷淡である。
ご本人や家族の人たちよりも、
うちの女房が緊張して、間に立って、何回も調停役をやった。

「年をとってから別れてもロクなことにはなりません」
とうちの女房は力説する。
奥さんの方はどうしても譲らず「今度こそ別れる」と
一歩もあとへは下がらない。

ご主人の方も意地があるから、
奥さんの要求に対して、
「では、住む家は一軒、買ってやろう。
慰謝料は一億円払ってやる。
もし心臓発作が起って入院したら、
入院費用も払ってやる」と大体のことを承知したが、
それを聞いて、うちの女房がご主人を食事に誘い出し、
「一億円も払ってあげる用意があるのなら、
一千万円か二千万円でダイヤの指輪を買って
さしあげればいいじゃありませんか?
六十歳にもなって、子供のように靴一足買うお金まで
ご主人にもらうのではどうかと思います。
少し自由に使えるお金をさしあげればよいじゃありませんか?
あなたの家の生活費と奥さんの小遺いを合わせたら、
私より少ないということはございませんよ」
と盛んに説得をする。

しかし、ほかのことは聞いても
ダイヤの指輸を買うことだけはガンとしてききつけない。

「自分の死んだあと、
妻が受け取れるように書き残している信託預金だって
一億円なんてそんなものじゃありませんよ。
僕の心遺いを女房は少しも理解をしようとしないのですから」
とご主人の方は溜息をつく。
しかし、どうしても譲れない一線があって、
そこのところで東と西に別れることも辞さないのである。





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2012年3月17日(日)

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