死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第106回
常識と異端

社会制度というものがある。
美俗良風と言われるものもある。
すべて人のつくったものであるから、
人がそれをよしとすれば、維持されるし、
人が捨ててかえりみなくなれば、廃れてしまう。

しかし、或る時代に通用している社会制度や美俗良風は、
それが完全に改廃されてしまわない限り、
その時代に生きる人々に対して強制力を発揮する。

孔子も言っているように、
「人が道を弘めるのであって、道が人を弘めるのではない」
人が足繁く通るようになると、
田圃のあぜ道みたいな狭い路地でも
いつか天下の大道になってしまう。

ところが、道ができると、
道があるから通るという人も出てきて、
道がどうしてできあがったのか、忘れられてしまう。

なかには、既にできあがった道を通るのが当り前で、
道なき道を切りひらこうとする人を異端視する人さえ現われる。

そういう常識人にとっては、
いま現在、世の中で行われているしきたりがすべて正しく、
そのしきたり通りに物事を運ぶことに何の疑問もない。

たとえば、結婚制度というものがある。
また一夫一妻制度というものがある。
結婚に至るプロセスには、恋愛もあれば、見合いもある。

昔は恋愛のチャンスが少なかったので、
見合い結婚が多かったが、
いまは男女間の交際が自由になったので、
意図的に仕組まれた見合いでも、
知りあったあとにお互いを
よく知るための交際期間を持つことが多い。

しかし、自分で選んだにせよ、
他人に選んでもらったにせよ、
結婚まで漕ぎつけると、結婚という制度があり、
結婚式をあげたり、披露宴を張ったりする。

結婚式には結婚式のしきたりがあり、
披露宴にはまた披露宴のしきたりがある。
「恒例により、お仲人さんから新郎新婦のご紹介を申しあげます」
というように、恋愛結婚で一緒になった男女でも、
いざ結婚となると、やはり仲人を頼むのがしきたりであり、
仲人から二人の一緒になったいきさつが説明されるのである。

また一旦、結婚して夫婦になると、
一生連れ添って生活をし、子供をつくり、
その子供がまた結婚して孫をつくるのが常識であり、
それがまた人生のしあわせであると思われている。

途中で片一方に死なれたり、離婚したり、
また子宝に恵まれなかったりすることはすべて、
ふしあわせなのである。

こうした常識に対して、
少しでも叛旗をひるがえすと、
世間から変人扱いをされる。

たとえば、広い世の中には、
結婚をしたくない人もあるし、
結婚をすることが必ずしも人生の幸福ではないと
考えている人もある。

そういう人は昔もいたが、
昔はそんなに多くはなかった。
それだけに世間からは変な目で見られた。

ところが、最近は「女の一人暮らし」だけでなく、
「男の一人暮らし」もふえている。
その数もふえて変人扱いにするにはあまりにも多くなりすぎると、
世間が漸くそれを受け容れるようになる。

しかし、男や女の一人暮らしを容認する人々でも、
離婚に対してはかなりきびしい見方をする。
ましてアメリカのように、どうせ雄蕗をするのなら、
はじめから結婚をするのはやめて、
ずっと同棲でとおそうじゃないかという男女に刈しては、
異端視する。

それは明らかに、結婚という制度に対する挑戦であり、
挑戦された側から見れば、ふしだらな生活態度に映る。

しかし、なぜ離婚が昔に比べてふえたか
という理由を辿って行けば、
(1)豊かな世の中になったとか、
(2)平均寿命が延びて老人になってからの時間がふえたとか、
(3)子供がいることが
離婚の障害になると考える人が滅ったとか、
(4)女にも生活力があるようになったとか、
昔とは違った社会環境になっている。

だから離婚の風潮が盛んになれば、
それが人の通る道になり、
古い道を人が通らなくなる。

離婚に伴う後始末も結構、大へんだとは思うが、
離婚したことに引け目を感ずる人は少なくなる。
結婚という制度に対する常識は
時代と共に少しずつ覆えされて行くのである。





←前回記事へ

2012年3月23日(土)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」

ホーム
最新記事へ