4. 惰性で商売をやるな
小売業受難の二十年
日本国中で、商売の具合が悪くなって廃業したいと思いながら、廃業できないでいる人がどれだけいるかわからない。
廃業したくなる理由は、もちろん人によって違う。個人的な事情によるものもあれば、社会全体の変化がその商売を成り立たなくしている場合もある。両者は一見、関係がないように見えるが、実際は相互に複雑にからみ合っている。商売をはじめた動機が家業を継いだものにせよ、自分で選んだものにせよ、うまく行っている場合は、人間は現金なもので、やる気も充分なら身体も健康で、商売をよくしようと努力するから、仕事の成績があがる。ところが風向きが変わって、追い風から向かい風に変わると、とたんに調子が狂いはじめ、仕事だけでなく身体までおかしくなってしまう。
たとえば戦後の日本で、小売業者のみならず、卸売業者からメーカーにまで大きなショックをあたえ、流通の経路に大きな変化をもたらしたものは、何といってもスーパー・マーケットの出現であろう。
いまでこそスーパーは日本国中に定着して一定のシェアをもつようになり、むしろ大型店規制法の改定をめぐってこれ以上の拡大を抑えられる方向にあり、大型小売業の経営者たちは「競争の自由」を楯に反撃に出ている。しかし内実は大型店のシェアもほぼ飽和点に達したと見るべきであり、大型店同士の乱立乱戦が防止されるという意味で、内心ホッとしているのではないかと思われるフシがないわけではない。したがってこの二十年間続いた大型店の弱肉強食時代もそろそろ終わりに近づいたが、ここに至る二十年間は、小売業者にとってはまさに受難の時代であった。
もっとも受難の時代といっても、封建時代と違って「転業の自由」があり、誰でも小売店主をやめてスーパーの社長になることはできた。現に、ダイエーの社長の中内功さんは薬の小売屋だったし、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊さんは小さな衣料品屋の二代目だった。ユニーの社長(現・会長)の西川俊男さんは西川屋という呉服屋だったし、八百半の社長の和田一夫さんは屋号の示す通り小さな八百屋さんであった。
スーパーというものが日本の国にはなかったのだから、スーパーの創業者がいずれも他業種からの転業者であったのは当然だが、面白いことに、大企業が転換して大スーパーを成り立たせた実例は数えるほどしかない。わずかに西武と京急、それと従来のデパートと電鉄が子会社をつくってスーパー部門を担当させたくらいなもので、世の中の変化につれスーパー部門が大きくなり、一応のスケールには成長したが、いまも業界の一位二位にはなっていない。
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