金のために死ぬ値打ちはない
羽田に着くと妻が迎えにきていた。私は妻の顔を見るなり、
「たいへんなことになってしまった。銀行に金は返せないし、出て行く人に返す金もない。このまま死んでしまいたい」
といった。すると、ふだんは小言ばかりいっているうちの女房が、キリリとした表情をして、
「馬鹿なことは考えないで下さい。どんな目にあわされても、お金のために死ぬことはありません。お金にはそれだけの値打ちはないのです」
女房にいわせると、たとえ家や財産が人手に渡り、丸ハダカになったとしても、人間は働く意欲さえ失わなければ、必ず飯は食って行ける。そりゃ一時は他人に不義理をするかもしれないが、いつか必ず借りを返すことはできる、というのである。女房はお嬢さん育ちで、経済観念もないほうだと思っていたが、いざとなると強いものだなと感心もし、またよい女房をもらって助かったと、改めて感謝もした。
あとになって考えてみると、建てたビルにテナントが入らないくらいのことは、死ぬの生きるのと騒ぐほどのことではないのである。工場がうまく行かなくなって製品も機械設備も二束三文になってしまうのとはわけが違い、金繰りが一時できないだけで、財産はまだそっくりそのまま残っているのである。しかし、ピンチをはじめて体験する人にとっては、たとえわずかな金額のことであっても、自分の手にあまることに直面すると、前後の見境いがなくなってしまう。
私の場合は、手形を振り出していなかったからまだよかったが、手形の期日が目前に迫っている人は倒産の憂き目にあうことも考えられる。だから商売をやるのに、たやすく手形を切らないという主義を貫くことも必要だが、ピンチにおちいったときにはピンチがどの程度のもので、かつ自分が受ける被害はどのへんでとまるかという冷徹な判断がどうしても必要である。
というのは、私の体験によれば、人間はたいていの場合、自分が予想した最悪のところまで落ち込むことは少なく、それより少し前のところで戻り足になることが多いからである。この場合も半年くらいはピンチが続いたが、賃貸条件を思いきってゆるめ、敷金三カ月と家賃だけで貸すことにしたら、すぐ二階、三階を続いて借りてくれる人が現われ、さらに四階だけ借りてくれる人が現われた。金繰りのために多少の努力は必要だったが、恐れていたことは何も起こらないですんでしまったのである。
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