というのも、親の事業を後生大事に守っている人を除けば、新しい仕事に新しい手法で挑戦している人々も、実は一種の創意工夫の世界であり、したがって、創意工夫がなければ成り立たないからである。芸術的な仕事と違うところといえば、個人的な作業と違って多くの人々の協力を必要とするところであろう。したがって人を「上手に踊らせる」という才能を欠くわけには行かないが、どの人も円満な人格者であるかというと、意外にもアンバランスな人が多い。どうやら事業もまたパーフェクトな人によるパーフェクト・ゲームではなくて、「偉大なる長所」をもった欠陥人間によって試行錯誤されるものらしいのである。
そういった意味では、実業家もまた欠点をモノともせず、長所で勝負する人種であるということができるように思う。
にもかかわらず、実業の世界で社長をやっている人の欠陥がもろに現われないのは、作業全体が一種のチーム・ワークになっていて、個人の持つ欠陥がある程度カバーされるからである。ということは、チーム・ワークさえうまく行けば、社長の長所が発揮され、欠陥はカバーされるということであり、欠陥人間でも社長がつとまるということになる。
本田宗一郎さんや松下幸之助さんを、世間の人たちは大人物と思っているかもしれない。事実、大人物であることに間違いはないのだが、大人物であることと欠陥人間であることとは必ずしも矛盾した概念ではない。大人物であるということは、一芸に秀でていて、その秀でた部分を突破口として人生の極致に達した人のことであって、完璧無比の人間ということではないのである。
たとえば、本田さんも松下さんも学歴はまるでないし、松下さんに至っては身体も弱かった。そういう人が世界的スケールの企業王国を築きあげられたのは、本能的に時の流れをキャッチする感覚があったからであり、また自分の欠点をパートナー、もしくは部下の長所でカバーする好運に恵まれたからでもある。さらにまた、人の心をとらえる点で、先天的ともいえるような才能を持ちあわせていたからである。
本田さんには藤沢武夫さんという良きパートナーがいたし、松下さんには高橋荒太郎さんという片腕になってくれる部下がいた。お二人とも自分の欠点を補ってくれる補佐役がいたからこそうまく行ったのであって、もしそういう人に恵まれていなかったら、成功者の仲間には入っていなかったかもしれない。そういった意味では、欠点のある人は欠点を補ってくれる人を探しあてることさえできれば、成功への道を歩むことが可能になる。
しかし、そのためには、まず自分の欠点がどこにあるか、自分自身がちゃんと認識しなければならないだろう。
自分で自分の欠点を知っているようであれば、もはや、「頭の悪い奴」の範疇には入らないだろうが、そういう人でも良きパートナーにめぐりあえるとは限らない。そこに運のよい人と悪い人の違いが出てくる。
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