第372回
情報化とは目がくらむということです

いまは情報化の時代と言われています。
情報を得て、事と次第の判断をし、
それによって人々が行動し、
世の中が動いて行くということでしょう。

そのそもそもはじまりは「知る」ということです。
何が起ろうとしているか知らなければ
人はどうしていいかわかりません。
はじめて京都に市電が走るようになった時、
市電に轢かれたら大へんだというので、
電車の前を旗をふる人が
「電車が来るぞ電車が来るぞ」
と呼びながら走って知らせたそうです。
それだけ電車のスピードが鈍かったということでしょうが、
そもそも電車とは何かを知らない人の方が
多かったということです。

いまは地球上のどことでも
同時通話ができるようになりました。
この文章にしてもパソコンを叩いただけで、
皆さんのところと瞬時につながってしまいます。
おかげで、知ることだけなら
簡単に誰にでもできるようになりました。
しかし、情報が多くなればなるだけ、
はたして正しい情報なのか、
またはたして役に立つ情報なのか、
新しい悩みのタネになります。

もし間違った情報に基づいて行動したら、
間違った結果を招いてしまいます。
従って「知る」ということは
情報に接するということではなく、
どの情報が正しいかを判断することになります。
昔から「知易行難」と言って、
「知るは易しく行い難し」と昔から言われていますが、
中国の国父と仰がれてきた孫文は
それを「知難行易」と反対の言い方になおしました。
本当は知ることも実行することも
意志の弱い人間にとっては同じように難しいことですが、
これだけ情報の氾濫する時代になると、
先ず取捨選択を間違えないことが大切でしょうね。
もしかしたら、孫文は情報化時代の到来を
予想していたのかも知れません。

人は自分が正しいと思った判断に基づいて行動します。
では判断の物差しは何かというとその人の常識です。
常識とは過去の経験によって形づくられた
社会的通念ですから、それが正しいとは限りません。
難しい世の中になったのです。


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2001年3月17日(土)

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