中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第4102回
なぜ「株の神様」ともちあげられたか

私がジャーナリズムで
「株の神様」とからかい半分に持ち上げられたのは、
私が株をやる人の常識である一流株に目もくれず、
この次、横綱になる成長株に目をつけて、
週刊誌で毎週紹介をしたら、
ほとんど毎週のようにストップ高になったからです。

当時は八幡製鉄や富士鉄の株価が50円の額面すれすれでした。
日立製作所や東芝は70円前後でした。
それに対して私がとりあげると、
樫山オンワードはいきなり3000円まで買い上げられたし、
千代田化工建設や徳島ハム(いまの日本ハム)や
理研光学(いまのリコー)や佐藤工業などは
皆がびっくりするような値段まで買い上げられました。

ですから私はどこの証券会社からも講演に引っ張りまわされ、
日立製作所の社長が前座をつとめ、
当時著名な経済評論家であった三鬼陽之助さんがその後に続き、
直打ちをまだ36才だった若造の私がつとめると、
会場には人が入りきれないくらい聴衆が詰めかけました。

しかし、それは成長株という考え方が
投資家に浸透していなかった1年か2年の間のことで、
「知ったがしまい」と株の諺にもあるように
それが常識化すると、
株価もそれを反映するようになったし、
私のような考え方は珍しくなくなりましたから、
私の出番はなくなります。
私は自分の出番を待つ落語家ではありませんから、
皆と同じ話をする興味を失ってしまいます。
ちょうど昭和39年の戦後最大の不況が起った時、
私は講演に行くのも取りやめ、上場会社のコンサルタントも廃業し、
1年間、歌謡曲の作詞にふけり、
当時、売り出しはじめた橋幸夫君に
「恋のインターチェンジ」を、
また三沢あけみさんに「南国の花」と言った歌を歌ってもらって、
ヒット賞を2つばかりもらったことがあります。

でも1年もやると歌謡曲づくりにも飽きて、
次にやったのが税金の勉強と不動産投資という
かつて考えてもいなかったことでした。


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2011年6月3日(金)

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