元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第35回
「まだ10年も20年もある…」あなたの余命を放棄してはいけない

ガンになったら「臨死体験」を大事にしなさいなどと、
縁起でもない話をする、オカルトなガン患者だと呆れないで下さい。
ガンに克つためにいかに死の恐怖を乗り越えるか…もう少し考えてみましょう。

ガンといわれればどんな気丈夫な人でも
「死にたくない」とおののくことは間違いありません。
僕にしても抗ガン剤と放射線の副作用による疼痛の中で、
大きな鋼鉄の玉を噛み砕くおぞましい夢を見ました。
ガンで逝った何人かの先輩たちが迎えに来る夢も見ました。
しかし、やがてガン宣告が即=死ではないと分かってきますから、
ガン病棟で悶々としながらも「無駄死」はしてはならないと思いつきました。

自分にとって死とはなにか?
いや、いまが本当に死ぬべきときなのか?
脳裏に、こうした疑問が渦巻くはずです。

長い人生の旅路を、
無病息災、無事故、無災害で通す元気者もたくさんいるでしょうが、
長寿社会ならば、誰でもが「死」ぬような大病を
1度や2度は体験することが当たり前の時代ではないか?
やがて年間、50万人がガンで死ぬ時代が来ます。
もうガンは特殊病ではないと思ったほうが正しいのかも知れません。
このエッセイの表題ではありませんが、
「気がつけば、あなたもガン」…それがもう常識の時代なのです。
しかし、ガンは、即、人生おしまいの「死病」ではない。
ガンとても、長寿人生を過ごす一つの「通過儀礼」に違いないと、
しだいに、僕はガン治療というものを割り切って考えたくになってきました。

とすると、手術とは本当に己に幸福をもたらす治療法なのか?
難しい手術であればあるほど、余命を取り戻すどころか後遺症で体力を落とす。
逆に命を縮めるのではないかと疑念が湧いてきました。
ましておや、医療ミス多発が現実です。
食道ガンのように100人中80人は助からない不確定な手術を受けることは、
この長寿時代のQOL(命の質)からみても理不尽ではないか?
手術の強要とは「余命を放棄しろ」という宣告に似ていないか?
ひょっとして、治療の迷信ではないかと思ったわけです。
とくに体の奥の臓腑ガン、
さらに中高年を過ぎてからのガンの場合は
「切るべきか?」「切らざるべきか?」
術後の「快さ」を第1に考えて決断を下すべき時代だと思います。
問答無用でメスを振りかざす「ドクハラ外科医」への遠慮が人生を狂わせます。
命は己のもの。術後の人生は患者のものです。

僕は疼痛と後遺症と死に恐れおののく治療の選択をスッパリ止めました。
もちろん、手術を受けない覚悟とは
「後ろめたさ」にも似た不安を残しますが、、
もう少し先まで「約束されているはず」の余命を何としても楽しみたい!
考えられる限りの患者に出来る養生法を組み合わせたわけです。


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2002年10月1日(火)

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