元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1701回
「この世は愛の練習場」

前回まで、「いのちの手帖」は、
ただの“治療の指南書”ではなく、
“人生の手帖””こころの友“として座右に置いていただくと、
日常の安全や安心レベルを超える、
「安穏」の光明が掴めるものだ――として、
「いのちの手帖」の最高顧問である、
帯津良一博士も「いのちの手帖」第3号の巻頭言を紹介しました。
「死んでも自分はある。死後こそ本当の生なのだ。
この世はそのための助走路に過ぎない」と紹介してきました。

ただ身体的限界を怖れるのではなく、
死後の世界はある、この世は自らの魂のレベルを高める助走路だと
考え付いた時、再び、病める者、悩める者が、、
心身の養生の大切さを感受し、
日々の感動の回復力、自然治癒力を呼び起こすことができる――、
これぞ「攻めの養生法」だというわけです。

さらに帯津先生は、死後の世界はある。
生命は死んで、150億年のかなたの虚空に還っていく。
人生とは、大いなる魂の旅路である――、といっておられます。
著書「ガンに勝った人たちの死生観」の中でこう書いています。
「メメント・モリ・・・ラテン語で
『死を想え』という意味ですが、
これこそ、患者さんにとっても、
医師にとっても、そして健康な人が生きるうえでも、
もっともたいせつなことだと思います。(略)
死への恐怖が消え、死をしっかり視野に入れたとき、
その患者さんの心の状態が、『生命場』の自然治癒力を賦活して、
病状を回復に向かわせるのです」と。

もう少し、僕たちが編集している
小誌「いのちの手帖」の考え方について書かせてもらいます。
まえに、このコラムで、スローヘルス研究会の新年会で、
80歳を越えても、じつにイキイキと、
帯津先生と同じように、大いなる魂の旅路を愉しんでいる、
鮫島純子さんという魅力的なエッセイストを紹介しました。

「毎日が、いきいき すこやか」(小学館)という本の中で、
「最期の迎え方 心豊かな未来のために」と題して、
85歳のご主人が食道ガンで
亡くなられたときの様子を綴っています。
手術を避けて、新緑の奥入瀬へ、箱根の山荘へ、
紅葉のときは京都へ家族旅行をしたり、
1年半をゆったりと過ごしたそうです。
最期の二週間は、病院でリンゲルを打ったりせず、
水だけで過ごしたそうですが、苦しむこともなく、
自然に任せた養生法を心がけたために心の平安も得たのでしょう。
「長い人生をここまで幸せに生かせてもらったことに感謝しよう」
「僕は仙人になります」と穏やかに昇天されたそうです。

それ以来、「こころの成長に有難う」と感謝する日々を養生の基本
としておられるそうで、新年会ではその話をしていただき、
参加者から、たくさんの拍手が寄せられました。
会場のみなさんも、ときに爆笑を交えながら、
帯津先生や鮫島さんの話をメモしたり、
ほほを輝かせて聞いておりました。
会場全体が温かい「エンパシー(共感)」の波に包まれ、
「いのちのエネルギーの高まる場」となったわけです。

その鮫島純子さんは、「いのちの手帖」創刊号では、
「希望を未来に 最期の迎え方」という随想を
書いていただいていますが、
「青渕」という雑誌のエッセイの中で
「この世は愛の練習場」だと書いておられます。
帯津先生の「死後の世界はある。
この世はそのための助走路だ」という
考え方とともに、素晴らしい
「いのちのメッセージ」だと思いませんか?
いわば「生き方上手」にも「逝き方上手」にも通じる、
まさに生死を越える、
ゆったりとした人生観のキーワードだと思いますので、
明日、そのさわりの部分を紹介します。


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2007年4月24日(火)

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