第70回
カネカネカネのケーエイ学15:責任とる人。

この時代の閉塞感を打ち破る起業家を、誰もが切望していることと思う。
新しい事業機会を見つけていくためには、まずポジティブな姿勢で、総合的・実質的にとらえるセンスが必要で、それにくわえてエイヤッと芸術的・人格的に判断し、飛び込む勇気がいる。

しかし組織の中で、なにかを審査するとなると、まず減点法=ネガティブチェック的な考え方になりがちだ。また役所などではとくに、せっかくの制度も、とかく形式的・文言的な運用に陥りやすい。

どうしてネガティブチェックに終始することになり、なぜ実質的な判断を回避して、形式的・文言的な運用になってしまうのか。 いずれも根が共通で、それぞれの役割をになう個人こじんの責任の自覚に行きあたるように思う。つまり肯定的・実質的に判断すれば、そこに責任が生じてしまう。書いてあるとおりにやっている限りは、だれも責任を問わない。

「責任」という言葉は、いつも「非常にいやなもの」というニュアンスで語られる。できるだけ避けたいもの、ない方がいいもの。つまり病気やケガ、災害と同じようなものというとらえ方だと思う。
しかし個人のレベルでも組織のレベルでも、ビジネスをしたり、意義ある事業をおこすときには、どんな段階でも「責任」を回避しては、一歩も進めない。

私たちは幼年時代から、学校教育を通じて「主体的に判断し、行動しなさい。そして結果に責任をとりなさい」と教えられたことがない。どちらかというと「言われたとおりにしなさい。このとおりやりなさい」という教育方法であった。
集団の中で、自我の強い人は「わがままだ」と言って排斥されるも傾向もあり、いつも「自由の意味をはき違えている」という抑制的な意見が、オトナぶって聞こえ、じっさい耳にタコができるくらい聞かされる。
使われる立場の労働者を育成する教育でもって、起業家が育つのを待っているわけだ。

私たちの社会では、エンジェルもいなければ、失敗した起業家の再出発を可能にする環境もない。
制度もないけれども、それ以前に「主体的に判断し、行動し、結果について責任をとる」という考え方に慣れていない。新しいものが出づらいのは、そういう意識にも、引っかかっているような気がする。


←前回記事へ 2003年1月22日(水) 次回記事へ→
過去記事へ
ホーム
最新記事へ