安岡章太郎夫妻は、阿川弘之夫妻と共に、我が家の最も古くからの常連客になってしまったが、古いメニューをひらくと、昭和三十年の一月二十八日に、吉行淳之介、有馬頼義、三浦朱門、五味康祐が檀一雄さんに誘われて私の家に見えている。五味康祐は二十七年下半期に「喪神」で芥川賞、吉行淳之介は二十九年上半期に「驟雨」で芥川賞、有馬頼義は、同じく昭和二十九年上半期に「終身未決囚」で直木賞をもらっているから、当時としては新進気鋭の若手作家ばかりであり、文壇づきあいのまったくなかった私に、ほぼ同年輩の作家たちを紹介してやろうという檀さんの好意からではなかったかと思う。

当時は、いわゆる〃第三の新人〃がつづけて芥川賞を受賞して文壇を賑わした時代であり、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三といった面々が文芸欄の話題をさらった時代であった。私も、小説家を志す以上、何が文壇のトピックスになるのか、関心はもっていたから、これらの人々の作品には一応、目をとおした。しかし、作品の守備範囲が私生活の範囲を出でず、基本的に日本的な花鳥風月の世界にとどまっていたから、お手本にしたいほどの魅カは感じなかった。物を見るアングルという点では、安岡さんの才能を評価したが、しかし、それは小説家の目というよりは、エッセイストの目であると思った。だから、その後、安岡さんと親しくなるにつれて、「あなたの才能はエッセイを書く人の才能だ」と遠慮のない意見を述べたりしたが、同じような感想を、私は梅崎春生氏に対しても抱いている。文学の世界には、エッセイというジャンルがあるにもかかわらず、日本ではエッセイのことを「雑文」と呼ぶし、また「雑文」に支払われる稿料は、原則として「小説」に支払われるものよりも少ないために、エッセイストとしてすぐれた才能をもった人々が、さほど得手でもない小説を書いている。そういうすぐれたエッセイストの才気を、私は梅崎春生氏と安岡章太郎氏に感じたのである。吉行淳之介氏の文壇登場は、なにしろダテ男の女色修行といったイデタチであったから、なんとなく徴笑ましくもあり、さらにそれに輸をかけたようなおかしさをともなった。実際に会う吉行さんは、都会派の、育ちのよい、気のやさしい坊ちゃんだが、その一見スマートな風貌と掲げた看板のせいで、女出入りのウワサが絶えず、当時の奥さんとの間にトラブルが重なり、「色男はつらいよ」と思わせるようなところがあった。結局のところ、宮城まり子さんというベラミができて落ち着き、先年私の家に食事に来たときも、「ジュンちゃん、ジュンちゃん」とまりちゃんが呼ぶから、どこにジュンちゃんがいるのかと思ったら、吉行の淳ちゃんであることがわかって、思わず笑いがこみあげてきた。吉行さんと私は同じ大正十三年の生まれだから、可愛いジュンちゃんだって、今年はもう五十八歳なのである。

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