三十四、カミナリ族の大親分本田宗一郎

あるとき、私は『プレジデント』誌の社長をしていた本多光夫さんと、パリのサントノーレのお店に入って買物をしたことがあった。パリにはデタックスといって外国人に消費税を出国の際返してくれる制度があるので、本多さんがそのための書類にサインをしたら、お店の女主人が、「ムツシュ・ホンダですか。これはフランスでもたいへんよく知られた名前です」といった。私はこの人も有名な人で、日本で一番よく売れている『プレジデント』という経済雑誌のプレジデントですと説明したが、この駄酒落は残念ながら相手には通じなかった。もちろん、フランスによく知られたホンダは本田宗一郎さんのことであり、もし日本人の中で世界で一番名を知られた人を一人あげろといわれたら、私は即座に本田宗一郎氏の名前をあげたい。ホンダのオートバイほど全世界に知られているメイド・イン・ジャパンはなく、世界中の若者たちの憧れの的になっているものはほかにない。
私が本田宗一郎さんと知り合いになったのは、もうかれこれ二十年ほど前で、雑誌社に頼まれて、本田さんと対談するために埼玉県にある本田技研の研究所を訪れたときであった。研究所の所長室で待たされている間に、ふと壁を見上げると、本田技研の社訓を印刷したものが掛けられていた。私はそこに書かれている内容を読んで思わずニタリとしたが、そこへあたふたとジャンパー姿の本田さんが駆け込んできた。挨拶もそこそこに、私は本田さんにきいた。
「社訓というのは、その会社にないものが書いてあるんじゃありませんか。"和を本とすべし"などと書いてあると、社内に派閥があって内紛が絶えないことを天下に告知しているようなものでしょう?だって"和"のある会社ならいまさら和を謳う必要はありませんものね」
本田さんはのみ込みの早い人だから、私が説明するのを最後まできかないうちに、
「そういえばそうだな。社訓というのはまずいなあ」
と頷いた。私は本田技研の成長ぶりを外から見ていて、また本田さんが「研究所には博士を生産する研究所と商品を生産する研究所と二通りあって、自分のところは商品を生産する研究所だ」と力説しているのをきいて、なるほどこの人は現場あがりの人だけあって、日本の大企業の弱点をよく突いた発言をする人だと感心していた。しかし、同時に、『文藝春秋』や『中央公論』が成功した経営者の談話を取材して巻頭論文に使いはじめたことに、ある種の抵抗を感じていた。雑誌社の方はいいけれども、経営者の方が天狗になって錯覚をおこしかねないと危惧したのである。松下幸之助さんの巻頭論文につづいて、本田さんの文章が『文藝春秋』の巻頭に掲載された直後だったので、私は本田さんに、「社長が巻頭論文を書くのは、会社の成長が止まったというバロメーターになるそうですね」
といった。すると本田さんはまたすぐに頭をかいて、
「いやあ、まいった、まいった。もう巻頭論文はやめた」
本当にすまなそうな表情をするので、この人、憎めない人だなあ、と思わず目を丸くした。
もっと驚いたことに、それから本当にどこの雑誌にも、本田さんの巻頭論文が載らなくなった。
こりゃタダのネズミじゃないなあと私は思ったものである。

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