臧(ぞう)と穀という二人の羊飼いがいた。二人とも羊を失った。臧に向かってなにをしていたのかと聞いたら、本を読んでいましたと言う。穀に向かってなにをしていたのかと聞いたら、博打をして遊んでいましたと言う。二人のやっていたことは違っていても、羊を失った点ではまったく同じなのである。伯夷は名のために首陽山の麓に死に、盗跖は利のために東陵の上で死んだ。二人とも死んだ理由は違っているけれども、生命を断ち天性を破ったことではいささかの変わりもない。自然という立場から見れば、どうして伯夷が是で、盗跖は非だということができようか。いまや天下はあげて殉死時代である。仁義に殉ずれば、人は君子と呼び、金銭に殉ずれば、人は小人と呼ぶ。けれども生命を断ち天性を破っている点では伯夷も盗跖も等しく、君子と小人の区別のあるわけがあろうか。
私に言わせると、仁義を重んずること曾参史魚のごとき人間でもけっして善とはいえないのである。自分のいわゆる善とは仁義のことではなくて、天賦の性に任せることでなければならない。また聡とは他人に聞くことではなくて自らに聞くことであり、明とはものを見ることではなくて自らを見ることである。自分に聞き、自分を見ることができなくて、もっぱら他人に聞き、他人を見る者は自已に忠実ならず、外界の事物に動かされる者である。かように自適することを知らない点では盗跖も伯夷もともに淫する者であって、私の恥とするところである。道徳とは、世間でいわれているような、あんなチャチなものではないのである」(駢拇第八)
ではなぜ、世にいう道徳が無益のものであるのみならず、有害なものとして荘子から非難されるのであろうか。一言でいえば、悪党を防止するための武器は例外なく悪党によって利用されるものだからである。このことを荘子は金庫の鍵にたとえて説明している。
「金庫破りを防ぐために人間が考えることは、鉄板を厚くし鍵を厳重にすることである。けれどもひとたび大盗が現われて金庫を持ち逃げすれば、同じように、ほかの者にあけられないように鍵が厳重であることを願うものである。もしそうだとしたら、知を傾けて泥棒よけを考えた人間は実は泥棒のために知恵をしぼったようなものである。
それと同様に、世に聖人といわれる人々は仁義というものを考え出して天下泥棒を防ごうとしたが、結果として天下泥棒に奉仕しなかっただろうか。むかし、齋の国は国富み民多く、漁業も農業も盛んで、国土も広く統制もよくとれていた。礼をもって国を定め、法をもって国を治めた。いずれも聖人の理想にのっとった政治であったが、田成子は齊の王様を殺しその国を盗んだ。国ばかりでなく、ついでにその国法まで盗み取った。そこで泥棒でありながら、身の安全なことは堯舜となんら変わりなく、小国もその悪口を言わず、大国もこれを討伐せず、十二代にわたって齊の国を領有することができた。これと反対に、むかし竜逢が切られたり、比干が裂かれたり、萇弘がえぐられたり、子胥がさらし者にされたりしたのは、いずれも聖人の法が暴君を守ったのである。
あるとき、盗跖の手下が親分の跖に"泥棒にも道がありますか"と聞いたことがある。
跖が答えて言うには"行くところ道のないところがあるものか。泥棒が庫の中をあれこれ想像するのは聖だ。盗みに入るためには勇が必要だ。ほかの者に遅れて出るのは義だ。情勢判断をして可否をきめるのは知だ。泥棒した財宝を平等に分配するのは仁だ。この五つのものが備わらないで、大盗になれた者はまだ一人もいない"と。
これを見てもわかるように、善人も聖人の道を心得なければ偉くなれないが、泥棒もまた聖人の道を心得なければ泥棒になれないのである。そして世の中には善人の数が少なくて、悪人の数が多いから、聖人は天下に利益をもたらすよりも害悪を流すことが多いことになる。ゆえに聖人と泥棒は唇と歯であり唇がつきれば歯が寒いように、聖人が生まれてはじめて大盗が起こるのである。このゆえに、大盗をなくそうと思えば、まず聖人を滅ぼさなければならない。
なんとなれば聖人が桝を作って量れば、泥棒も桝を利用して盗み、聖人が秤を作って量れば泥棒も秤を利用して盗み、また聖人が印章を作って約束を守らせれば、泥棒もまた印章を利用して盗むからである。同じように仁義を作りだして泥棒を防止しようとすれば、泥棒は仁義を楯にして盗むものだからである。どうしてそのことがわかるかというと、宝石を盗む者は刑罰に処せられるのに、国家を盗む者は諸侯になり、しかも盗んだ諸侯の門には必ず仁義があるからである。仁義をあわせて盗んだのでなければ、どうして天下泥棒の門に仁義のあるわけがあろうか。
もし世の中の人がことごとく大盗のまねをして、仁義の看板を掲げて法律を悪用することばかり考えるようになったら、重賞をもってしてもこれをあらためさせることができないだろうし、厳刑をもってしてもこれを絶滅することはできないであろう。泥棒をかように利した張本人は誰かといえば、ほかならぬ聖人なのである。それゆえに泥棒を絶やそうと思えば、まず聖人を捨てるべきであり、小盗を絶やそうと思えば、宝石をたたき壊してしまわなければならない」(篋第十)
ことばを変えていえば、人間の知恵は必ず逆用されるものであるから、聖人が世に絶えないように悪党もまた絶えることがないのである。そして、世間では聖人のほうが善で泥棒のほうが悪だときめてかかっているらしいが、たとえてみれば、聖人は六本指、泥棒は四本指であって、そのどちらが正しくてどちらが悪いという善悪是非の明確な基準はありえないのである。

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