「文化人」亡国論

今日、日本では年々「文化人名簿」というものが発行されていて、そのなかには私の名前も出てくるから、もし「文化人」をあの名簿に出る人間として定義すれば、この文章は自分の指で自分の目をえぐることになる。もっともこの文章を最後まで読めば、おまえもたしかにそのなかに入るぞといわれるかもしれないが、あれは正確には「出版関係者名簿」あるいは「執筆者寄稿家名簿」とでも称すべきものであって、自分を文化人に擬せられて苦笑をしている人も多いにちがいない。それというのも現代日本で「文化人」と呼ばれる一群の人々は、口に「平和」を唱え、心に「ソ連中共」と結び、しかも一種の特権意識をもった異常な人種を指しているらしいからである。少なくとも「われわれ文化人は」と平気で言えるような神経をもった人間は、たいていそうした精神構造の持主だと考えてよい。
韓非が最も憎んだのはそうしたいわゆる「文化人」であった。ただ、彼の時代の文化人は儒者および墨家であって、その奉ずる信条はまちまちであるが、共通している一点は、堯や舜などの先王の治績を至上命令として、今日の文化人が「平和」を唱えるように「仁義」をあげつらったことである。
「儒者の始祖は孔子であり、墨家の始祖は墨(ぼくてき)である。ところが孔子が死ぬと、儒者は八つに分かれ、墨が死ぬと、墨家は三つに分かれた。みなそれぞれわれこそは正統派であると主張して相争っている。孔子と墨子がふたたびこの世に生まれてくることはないから、どれが正統派であるかきめることができない」(顕学)
その孔も墨もともに、堯舜の道を説くが、その取捨選択は同一でない。だいたい、三千年もむかしの人の言行を正確に知ろうとしても知れるわけがない。考証不可能の事実をお手本にせよと説くのは、バカでなければ人をだますものであろう。墨家は葬式は簡単なほうがよいと主張し、冬は冬服、夏は夏服のまま、棺桶は三寸の厚さでよく、喪に服するのは三ヵ月でよいという。それを聞くと、倹約でよろしいと君主は賞める。儒家は破産せんばかりに盛大な葬式をし、それによってできた借金を払うために子供を質に入れる。喪には三ヵ年も服さねばならず、そのあいだじゅう、人にたすけてもらわねば歩けないほど嘆き悲しまなければならない。それを見ると君主は孝行でよろしいと賞める。墨子が正しければ、孔子はまちがっており、孔子が正しければ、墨子がまちがっているのに、君主はどちらの学者にも礼をつくすのである。
また墨家のなかには、自ら省みてまちがっておれば召使にも頭をさげ、自ら省みて正しければ諸侯をも恐れないと主張する者がある。君主は廉直でよろしいと賞める。ところが同じ墨家のなかには無抵抗主義を主張する者があって、牢獄に入れられても侮辱されても恥と思わない者がある。君主は寛大でよろしいと賞める。廉直であれば、寛大でありうるはずがなく、寛大であれば、廉直でありうるはずがない。しかるに、君主はどれもこれもよろしい、文化人はみなよろしい、とむやみに文化人を歓迎するので、文字どおりの「百家争鳴」で騒々しいこと。
「いま、国じゅうの人間があげて政治をうんぬんし、家ごとに『商子』や『管子』の書物を蔵している。しかるに国はいよいよ貧乏になっていく。これは耕作をうんぬんするもの多くて、実際に鋤をとる人間が少ないからである。国じゅうの人間がみな軍事を論じ、家ごとに孫子や呉子の兵書を蔵している。しかるに兵隊はますます弱くなる。戦争を論ずる者ばかりいて、実際に甲冑を身につける者が少ないからである」(五蠧)
「いまの学者のなかには政治を語る者が多い。彼らは貧乏人に土地を与え、資本のない者に元手を与えよと主張する。しかし、考えてみるがいい。豊作や臨時収入がなくて、しかも人よりも金持になる百姓は一所懸命働くか、でなければ人一倍倹約だからである。飢饉や病気や災禍がなくて、人より貧乏な者はむだづかいをするか、でなければ怠け者だからである。もし、富める者から取って貧しい者に与えるならば、それは働き者や倹約家から取りあげて浪費家や怠け者に与えることにほかならない。こういう政策をとって、しかも人民に勤勉節約を期待できると思うのはまちがっている」(顕学)
「もし人がいておまえを利口にしてやろう、不老長生にしてやろうと言えばそいつを気違いだと言うだろう。利口かバカかは生まれつきであり、人は必ず死ぬものときまっているからである。もともと知恵と生命は人から学ぶべき性質のものではない。仁義をもって人に教えるのは、ちょうど知恵と生命を与えてやろうというようなものである。毛(もうしょう)や西施(せいし)がいくら美人であっても、彼女たちのうわさをするだけでは自分の顔がきれいになるわけのものではない。お白粉をぬったり、口紅をつけはじめて美人になれるのである」(顕学)
だいたい、労働とは苦しいものだ。苦しさにもめげず、人間が労働に従事するのはほかならぬ金のためである。ところが、今日の為政者はあれこれと説をなす文人学者どもを優遇する。文学を治め、空論を巧みに弁ずる術を習って、それで金になるとわかれば、だれが苦しい労働に従事するであろうか。かくて知恵で飯を食おうとする人間ばかりふえて、労働に従事する人間はますます少なくなる。
「むかし、王登という者が中牟(ちゅうぼう)の令になった。自分の治下に中章と胥己という博学にして人格のある者がいますが、起用されてはいかがですと襄王に進言した。では連れてきたまえ、中大夫に起用するからと王は答えた。家老が諌めて言うには、中大夫といえばわが国の重要な地位です。功績もなくてこれを任ずるのはいけません。しかし王は聞かず、一日で二人の中大夫を任命し、これに田宅を与えた。このため中牟では耕すことをやめて田畑を売りとばし、文学に従事する者が村の半ばに及んだ」(外儲説左上)
この調子でいくと、いまに日本国じゅうが「文化人」だらけにならないともかぎらない。


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