Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第163回
邱さんが日本人国籍を取得しました

邱さんが日本で活動するようになったきっかけは
台湾の独立をはかり香港に亡命したことにあります。
したがって邱さんは無国籍者の状態で、作家、経済評論家、
経営コンサルタントとして活動してきたのですが、
昭和55年3月、奥さんと2人の息子さんとともに
帰化を許され、日本人になりました。

「大正13年、台湾の台南市で生まれた時、
私はもともと日本人だった。
当時、台湾は日本の領土だった。
台湾で生まれた台湾人はすべて日本人だった。
但し、本島人と呼ばれた台湾人は戸口法の適用を受け、
内地人と呼ばれた日本人の戸籍法とは違う扱いを受けた。
戸口法と戸籍法とはそれぞれ全く別の法律で、
両者をつなぐ規定がなかったので、
本島人と内地人が結婚しても籍が入れられなかった。」
(「日本人に戻りました」『食べて儲けて考えて』に収録)

たまたま邱さんの父親は本島人で、
母親は福岡県久留米市の生まれの内地人だったので、
法律上の登記ができず、内縁の妻になっていました。
二人の間に生まれた長女と長男である邱さんは、
父親に前妻がいたので、その方の子供として戸口法によって
出生届がなされました。
しかし、本島人と内地人に対する差別待遇が激しかったので、
邱さんの母親は次に生まれた子供たちは自分の私生児として
久留米市の戸籍に登記しました。

「昭和19年、やっと戸口法と戸籍法をつなぐ法律が成立し、
私の父は子供たちを私生児の屈辱から救うために
母の籍に入夫して日本人になった。
『父も母も日本人なら子は日本人』というのが国籍法の規定だが、
私は昭和20年の時点で台湾の籍にあったから、
日本人のなかには入らないというのが法務省の解釈である。

こうしたハンディを背負って生きてきた私は、
自分の宿命的な弱点をいつも逆手にとることによって
逆境を切り抜けてきた。
たとえば直木賞をもらっても小説家として
なかなか受け入れてもらえなかった私は、
中国人名前にふさわしい書き物として、
料理と金儲けの本を手がけた。
また外国人として日本人及び日本文化を評論する本も書いた。
そうしたら、それらの書物は私を有名にし、
私は“金儲けの神様”になったり、
“大食通”になってしまったのである。(略)

ここまでくれば、既に自分の人生の一番長い部分を
日本で暮らしたことになる。
長い間、国籍のことで悩んできたので、
私は世界がもっと解放されて国籍なんか
大して問題にならない時代が来ることを渇望している。(略)
恐らく外国にある日本人会が今の県人会くらいの感覚でしか
受けとられない時代がくるであろう。

そういう意味では、何国人であってもかまわないのだが、
日本に本拠があり、子供たちも日本で生まれて
日本人として育っているから、
かつて私の父が子供たちのために内地籍に入ったように、
私もまた子供たちの将来のために
日本人の仲間に入れてもらってもよいだろうと考えた。
そこで前の年の4月に帰化の申請をし、
今度ようやく皆さんと同じ日本人に戻ったのである。」
(「同上」)


←前回記事へ

2003年2月6日(木)

次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ