パリだけがフランスではありません

第43回
ちょっと悲しい結末

たまたま3月24日付東京新聞を読む機会がありました。
そこに「DV(ドメスティックバイオレンス)深刻。
夫におびえる外国人妻」と題し、
日本人男性と結婚したフィリピン人女性の記事がありました。
それで知り合いの似たような話しを思い出したのです。

3年ほど前の事です。
行政が主催する外国人向けのフランス語講座に通っていて、
ロシア人女性タティアナに出会いました。
当時52歳だったと思います。
いつもブロンドの髪を形良くセットしてお洒落な人でした。
ところが半年もたたないうちに、何かが違ってきました。

その頃TVのドキュメンタリー番組を見て、
アメリカやヨーロッパの豊かな国々からロシアやウクライナへ
結婚相手を探しに行くツアーの存在を知りました。
お嫁さんが来てくれない日本人男性が、
中国に花嫁探しに行ったのと同じです。
そして旧ソ連邦崩壊後、
まだ政治的、経済的混乱から抜けきれずにいた
彼の国々の女性たちのほうでも、
国際結婚に夢を託していたのです。

タティアナが結婚したフランス人男性
(60歳前後の離婚経験者と思われます)と
どのように出会ったかは知りません。
しかし結婚後まもなく二人の関係がギクシャクし出したのです。
彼女は夫の事をこう言いました。
退職した警察官で、見るテレビは乱暴なアクション物ばかり。
最低限のお金しか持たせてくれず、その支出にもいちいち口を出す。
客観的に見て、
彼女にもロシアでの生活習慣をそのまま持ち込もうとする
無理はあるようでした。

がある日、タティアナは右目の回りを青くして講座に来たのです。
最初は日常の小さな行き違いが、
時がたつに連れ夫の暴力にまで発展してしまったのです。

結局彼女は離婚しました。
と言っても簡単な事ではありませんでした。

まず講座の講師に相談し、
適切な行政機関を紹介してもらったのです。
弁護士も立て、離婚が成立したのは2年ほど後でした。
当然、滞在ビザがどうなるか。
暴力から逃げるための住む所はどうするか。
経済的な問題など難問山積でした。
それでも彼女は
果敢に行政の援助機関をしっかり活用して切り抜けたのです。

しかし誰もがタティアナのように
苦しくともうまく切り抜けられるわけではありません。
彼女がこう言ったことがあります。
「友達のウクライナ人女性は、
国ではキャリアウーマンだったのに、結婚してフランスに来た途端、
いつも土まみれで夫の農業の手伝いをしているわ。
これが彼女の選んだものなのかしら?」。
豊かな国の豊かな生活を夢見た結婚だったのに…
そんな恨み言が聞こえてきそうです。


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2005年4月25日(月)

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