誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第72回
「量」と「質」の関係

私は意地が汚いせいか、
何でも腹一杯食べたがるたちで、
「質」か「量」かと問われれば、
迷わず「量」と答える。
女房などは「おいしいものをちょこっとだけつまみたい」
などとやけにお上品ぶったことをいうのだが、
私はたとえ旨くても少量ではいや。
飲むなら浴びるほど飲み、食べるなら吐き出す寸前まで食べたい。
これで「ああ、また太っちゃった。どうしよう……」
と年がら年じゅう、天を仰いで嘆息しているのだから世話はない。

フレンチやイタリアン料理には
“ムニュ・デギュスタシオン”という提供スタイルがある。
日本の懐石料理からヒントを得たという提供法で、
簡単にいうと“小皿料理”のこと。
いろいろな料理を十数種の小皿に盛って出してくれる。
これもうちの女房みたいに
「あれこれ、いろいろ、ちょっとずつ」
つまみたいとする客側の要望に応えた提供法といえるだろう。

私はこの小鳥がつまむのか、
と思えるほどお上品ぶった提供スタイルが大きらいで、
それなら一品でもいい、
馬が食うのかと思われるほど山盛りにして出してほしい。
女たちはよく「量より質よね」などというが、
ある程度の量を摂らないと質的なことも分からない、と思うのだ。

バブル景気で日本じゅうが異様に浮かれ立っていたころ、
私はヨーロッパの星付きレストランで
毎夜のディナーと洒落ていた。
といっても仕事がらみで、
けっこうハードなスケジュールをこなしたものだが、
毎夜のごとく正装して美味佳肴を堪能できたのは
得がたい経験であった。
そこで知ったのは、量が蓄積されると、
ある時点から質に転換する、という事実だった。
数百万円も使い(雑誌社の金だが)、
高級ワインに高級料理の毎日。
古代ローマの美食家たちではないが、
彼らが用いたとされる吐瀉剤の力を借りたいくらい、
毎日がご馳走責めであった。

ワインは一生分(一升ではない)くらい呑んだ。
そこで分かったのは、
「ああ、ワインとはこんなにもおいしいものなのか」
ということだった。
極上ワインとふだん飲みのワインとの違いも分かった。
ちびちびと上品に呑んでいたら
分からなかったであろう地点に、
がぶがぶ飲んだら最短距離で到達できた。
私はそのとき確信した。
「質」を知るには「量」の蓄積が必要なのだと。


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