「骨董ハンター南方見聞録」の島津法樹さんの
道楽と趣味をかねた骨董蒐集の手のうち

第42回
商品学(中国陶磁編)
8.磁州窯―発掘された中世の街鉅鹿

1910年前後欧米の美術愛好家達の間に
中国美術に対する熱い関心が高まっていった。
そのきっかけの一つが鉅鹿における陶磁器の発掘である。
そこから発掘された作品が古美術市場に出回り、
高額な値段で取引された。

鉅鹿の農民が旱魃の為井戸を掘ろうとして
黄土を深く掘り下げていたところ、
その中から壷や皿、様々な宋代の遺品が現れたのである。
時をおかず堀屋や仲買人が
鉅鹿の街に押しかけ、あちこちを発掘し、
大量の美しい陶磁器を発見した。
そこで発見された陶磁器の中心をなすものは
宋代磁州窯の陶器であった。
これらが北京から欧米に流出した。

鉅鹿は宋の大観2年(1108年)に
河の氾濫で町全体が埋まってしまった。
出土した磁州窯作品の特徴は
鉅鹿手とも呼ばれる白化粧が美しい焼き物である。
出土磁州窯作品のバリエーションは
白化粧に透明優をかけたもの、
掘り込みや鉄絵、掻き落し、飴釉など
宋代磁州窯の技法の展開が多様だった。

鉅鹿は河北省にあり、
宋代においては都からかなり離れた辺境の地であった。
そこで用いられた陶磁器の数々は民衆の器だったと思われる。
いわゆる用の美を感じさせる作品だ。
鉅鹿の発掘から20年ほど後に日本において民芸運動が始まった。
その結果磁州窯の人気がわが国においても高まっていった。
そして素朴で力強い磁州窯の作品は
世界中に多くのファンを生んだ。
それまでの陶磁器の価値を定めるものは
どちらかと言えば繊細なもの、絵付けの美しいものなどが
重要視され、宋代の定窯や、明代染付などの優品に限られていた。

我国では江戸初期に輸入された古染付や砧青磁のような
どちらかと言えば茶の湯に重点をおいた
繊細な作品が好まれたのである。
民衆の美という新しいテーマに対する一石を投じたのは
この発見によるのではないだろうか。


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