南原繁教授と辰野隆教授

さて、東大経済学部に入ってみると、経済学科と商業学科と分かれていても、受ける講義の内容はほとんど変わりなかった。わずかに商業学科の学生は、会計学とか簿記の受講を義務づけられているていどで、あとはだいたい同じであった。当時、舞出長五郎先生が経済学部長をつとめておられ、先生の「経済原論」の講義に何度か出席したが、ご自分のお書きになった本を多少吃りながら棒読みにされるだけで、退屈この上なかった。なにしろ日中戦争この方、軍人と右翼の発言権がとみに強くなり、東大経済学部では矢内原忠雄、有沢広巳、脇村義太郎といった人気教授がすべて追放されたあとであった。経済学部の中も大政翼賛会のような雰囲気だった。
そうしたなかにあって、わずかに万丈の気を吐いておられたのは、「政治経済学」の北山冨久二郎教授と「理論経済学」の安井琢磨助教授と「経済史」の大塚久雄助教授であった。一年の時、私は佐々木道雄教授の「会計学」のゼミの受講生になったが、二年になると、北山教授と安井助教授のゼミを選んだ。本当は一つで足りたのだが、欲張って二つもとったのである。それにしても「政治経済学」と「理論経済学」という両極端にわたっていたのはいかにも私らしい。私自身早くから、いろいろの異なった意見や思想を同時に吸収して、消化のできる「矛盾的自己同一」的存在であったのかもしれない。「政治経済学」の北山先生は、山崎覚次郎先生の弟子で、東大に戻る前は台北帝大で教鞭をとっておられた。台北にいた頃も、台湾の人たちに理解があるというので台湾人の間で評判が高かった。ちょうどその頃、大陸で暗躍していた影佐機関のブレーン・トラストとして汪精衛(汪兆銘)政権工作に深くかかわっていた。私たち台湾人の学生たちが冷たい目で見ていた日本帝国主義の侵略や和平工作を本気で「日中和平への道」であると信じており、根本的に意見の一致を見ることはむずかしかったが、それでも本音でぶっつかり合うことのできるただ一人の精神的な指導者であった。のちに先生は安倍能成先生が学習院大学の学長になられた時、舞出長五郎先生ともども学習院経済学部に移られたが、どちらの大学でも卒業生の間に「北山会」という先生を慕う学生たちの会が自然発生したから、先生の人気のほどをうかがい知ることができる。
もう一方の「理論経済学」の安井琢磨先生は戦後、経済学畑の学者としては珍しく文化勲章の栄誉に輝いたくらいだから、その頃から才気煥発の人であった。若手の理論家として、本来ならマルクス経済学者と張り合うべき存在であったが、何しろマルクス学者たちが軍部によって粛清された直後だったから、敵がないというよりは、敵のない不遇をかこっていた。それでも語学の才能もあり、西洋の経済書を原書で数々読んでおられたから、レオン・ワルラスからはじまってハイエクに至るまで、理論経済学の流れについて私たちに手ほどきをして下さった。ただ理論派はどうしても高等数学を駆使したがり、高等数学に深入りしすぎて現実を忘れてしまいがちになる。その点では、いつも物足りなさがついてまわったが、あの言論の統制されたさなかだったから、象牙の塔に閉じ込もり、わけのわからない理論をこねまわしているほうが安全なことも事実だった。
入学した当初はまだ西も東もわからなかったので、ひととおり時間割りどおりの授業に出席した。講義と講義の間、安田講堂前の芝生に寝ころがって、他校から入学してきた同期生たちと少しずつ友達になっていった。その中には一高から入学した者もあれば、学習院から入学した者もあった。話をしてみると、一高出が学習院出より頭がいいとか、傑出しているとかいうことはなかった。しまいにはまたいつもの癖が出て、「一高、東大といっても、まあ似たようなものだな」と、だんだんタカをくくるようになった。
一年もたつと、私は経済学部の講義にあきあきしてしまった。それでも学期末の試験に合格しないと困るので、学期末試験が近づくと時々、講義には顔を出したが、たいていは友人たちのノートを借りてすませた。代わりに学部を越境して法学部と文学部へ講義を聞きに行くようになった。経済学部の講義は北山先生の「財政学」だけにとどめ、あとは法学部の南原繁教授の「政治学」と文学部の辰野隆教授の「フローベル研究」に出席した。南原先生は小柄で、当時すでにシラガが目立っていたが、軍部の圧力に屈せず、自分の信念にもとづいた自由主義的な講義を続けたので、反帝国主義ムードの強い学内で学生たちにたいへんな人気があった。のちに共産圏を含まない日米単独講和条約に猛反対をして、時の総理・吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られたことで有名になったが、いくら何でも「曲学阿世」はあたらないと思う。戦争中、あれだけ毅然とした態度をとってきた人は、「信念の人」ではあっても、「世におもねる人」であるわけがない。
いつも超満員の教室の中で、物おじせずに講義を続けた先生を見て、「一寸の虫にも五分の魂」とはこんな人ではないかと尊敬の念を禁じ得なかったものである。
それに比べると、辰野隆先生は風貌に似合わずダンディな人であった。文学部には歴史学科もあれば、哲学科もあれば、美学科もある。仏教学科といったものもある。『風土』を書いた和辻哲郎先生も在職中で、私もその授業をのぞいたことがあるが、最終的に毎週出席する気を起こしたのは辰野先生の「フローベル研究」であった。今になって考えてみると、あの強烈な軍国的ムードの中でわざわざ『ボヴァリー夫人』という姦通小説の講義を、それも漫談まじりで続けられたのも、辰野先生のソフトながらも、きびしい抵抗ではなかったかと思う。のちに直木賞を受賞してジャーナリズムに登場するようになってから、私は何回か辰野先生のお相手をさせられるようになったが、軍国主義のさなかでも、言論の自由が取り戻されてからでも、辰野先生の酒脱な態度はまったく変わらなかった。
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