ある朝、突然寝込みを襲われる

私自身について言えば、東大に入れてもらったおかげで、日本の最高学府がどんなものであるかを実感するチャンスに恵まれた。ザッと周囲を見まわしても、私より頭の回転がよくて、私よりも機転がきいて、なおかつ私よりよく勉強する人はあまり見当たらなかった。のちに私が人物の評価をするにあたって学歴をほとんど問題にしなくなったのは、最高学府の楽屋裏をのぞいてしまったからである。にもかかわらず、東大は日本にとって依然として最高学府であった。あの軍国主義の嵐が吹きすさぶさなかにあっても、東大の教授たちはガンとして考えを変えず、東大は帝国主義と軍国主義に対するレジスタンスの総本山という趣きがあった。ここでは植民地出身の者でも、教授たちからも同期生の誰からも差別待遇をされることはなかった。同期生の中には白系ロシア人が二人ほどいたが、この人たちも異人種扱いを受けるよりは、日本語がよくできますね、と逆に珍しがられ、ちやほやされるほうであった。
そうした雰囲気に溶けこみ、私はうかつにも我を忘れた。私はこれまでも自分が危険思想の持主であると思ったことはなかったが、私を含めて台湾人、朝鮮人、それから中国大陸からの留学生はすべて特高や憲兵隊の監視下におかれていた。本郷追分の「西濃館」という賄いつきの下宿に六畳一間を借りて住んでいたが、すでに戦時体制下におかれていたので、外食券がなければ学生食堂や外のレストランで食事をすることができなかった。私はフランス語を勉強する必要を感じていたので、本郷追分から都電に乗って水道橋にあるアテネ・フランセの夜学に通った。フランス語の授業を終えて大急ぎで二回都電を乗りかえて下宿に帰ってきたら、七時をすぎることがしばしばあった。下宿の夕食は七時でおしまいになるので、私はしょっちゅう食事にありつけず、ひもじい思いをさせられた。
その上、不在の間に押入れの中のフトンの位置が時々、違っているのが気になった。かねて先輩から「気をつけろよ」と注意されていたので、もしや特高が部屋の中をひっくりかえして調べているのではないかと思った。調べられても、検挙される証拠は何もないけれども、私には禁書を読む楽しみがあった。禁書といってもエログロ、ナンセンスの本のことではない。経済学部に入ってマルクスやレーニンの本を読まないようでは一人前ではないと台湾人の先輩から教えられ、『資本論』とか、『ロシアにおける資本主義の発達』とかいった類いの本を研究室から借りてきて、夜遅く部屋に鍵をかけてひそかに読みふけっていたからである。
一ぺんに何冊も借りてきて、「お前は共産主義者だな」とあらぬ難癖をつけられたのではやばいと思ったので、一冊ずつ借りて来て、読み終わると、また次の一冊と取り換えて読んでいた。
新しく借りてきた本は、思想と全く関係のない別の本のボール箱の中に入れ、本棚の別の段に並べておいた。特高の捜索の重点はよそから来た手紙だとか、押入れの中に無線機をかくしていないかということに重点がおかれていたから、本棚の中のトリックまで見破られることは少なかった。
それでも部屋の中を荒らされた気配が一度ならずあったので、私は学生相手の専門の下宿屋に住むのはやめにしたほうがいいと思うようになった。ちょうど、しばしば夕食に遅刻してひもじい思いをしていたので、それを□実に農学部の脇にあるシロウト下宿に引越しをした。しもた屋の階下にお婆さんと出戻りの娘さんが二人で住んでいて、二階の二間を貸すと言うので、東大医学部に留学していた台北高校尋常科時代からの先輩にあたる許武勇さんと、隣り同士で一部屋ずつ借りて住むことにした。許さんは私と同じ台南市の出身だが、父親が神戸で貿易商をしていて、当時欠乏していた砂糖や食糧も何とか都合のつくほうだった。私も親が心配して台湾から砂糖や飴玉や豚デンブを定期的に小包にして送ってくれていたが、だんだん米軍潜水艦に商船が撃沈されるようになって、補給が途絶えがちだった。それでも砂糖の産地である台湾の出身だから、日本内地の地方から来ているクラスメイトたちより甘い物にめぐまれていた。誰かが小豆を、また誰かが餅を持ちよって、火鉢の上に鍋をかけて新聞紙で炭火をおこし、手づくりのぜんざいをつくって舌鼓を打ったりしたものである。
あれは確か昭和十九年の三月の寒い朝のことであった。私は寝込みを襲われ、叩き起こされるといきなり手錠をはめられた。三人の私服が私の前に立ちはだかっていた。一人は立ったまま、あとの二人は私の部屋の中の証拠になりそうなものを掻き集めて荷づくりをした。隣室のただならぬ気配に驚いた許さんはあわてふためいて部屋をとび出し、階段を下りる時に足を滑らして下まで落っこちた。私はとり押さえられていたので、扉をあけることも言葉をかけることもできなかった。手錠をかけられたまま都電に乗せられ、九段下まで連れて行かれて、麹町憲兵隊の留置場の中にぶちこまれてしまった。
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