学徒出陣のあとの東大

すでに前の年の十月に学徒動員令が発令され、大学の構内から文科系の学生の大半が姿を消していた。続いて台湾・朝鮮の学徒にも特別志願兵の条令が出され、自分らは関係ないと思っていた台湾人と朝鮮人の学生が配属将校に呼び出されることになった。「君は志願するか?」ときかれて、台湾人の学生たちは「ハイ、志願します」と答えた。本当は誰一人兵隊になりたい人はいなかったのだが、ここのところは妥協して志願の意志を鮮明にしておかないと、あとでひどい目にあわされることを承知していたからであった。志願といっても、「志願」という名の強制徴兵であることを知らない者はいなかった。
ところが、朝鮮人の学生は「よく考えてからご返事します」と即答をさけた。志願をしなければ大学に残ってはおられないこと、おそらく徴用令書が来て、炭鉱とか道路工事に引っ張って行かれて、重労働を強いられることは目に見えていた。それでも、ほとんどの朝鮮人学生は志願を拒否して大学から姿を消し、どこかに雲がくれしてしまった。こういうところが台湾人と朝鮮人の国民性の違いと言ってもよいだろう。台湾人が「長いものには巻かれろ」と目前の禍いから逃れる方法をまず考えるのに対して、朝鮮人は「目には目を、歯には歯を」で頑強に抵抗する。どちらが正しくて、どちらが上手な生き方かはなんとも判断の仕様がない。配属将校は一人一人聞き終わったあと、最後に「君は?」と私に聞いた。当時の私は早生まれの繰上げ入学だったから、満二十歳にはまだ三ヵ月足りなかった。
「自分はまだ満二十歳になっていませんので志願する資格がありません」と私は答えた。
「では来年になったらどうする?」
「来年になったら、志願をします」
「よしッ」
と配属将校ば私の肩を叩いた。本当のところ来年はどうするか決めたわけではなかった。明日になればまた明日の風が吹くと私は思っていた。はたして、間もなく台湾にも徴兵制度を実施することが閣議で決定されたが、運のよいことにそれは昭和二十年からということになった。昭和十九年に徴兵年齢の満二十歳を迎える私は、そのために徴兵されることもなく、嵐と嵐の間を、風をよけてうまく通り抜けることができたのである。
しかし、学徒出陣のあとの東大には、兵隊検査に不合格だった病人と半病人とそして私のような未成年しか残らなかった。同期の経済学部の学生は三百五十名いたのが、四十名ていどに減っていた。その四十名にも勤労奉仕の仕事が割り当てられることになった。最初の頃は人手不足に悩む農家へ麦刈りや田植えの手伝いにやらされたが、そのうちに軍需省に動員されることになった。私もそのつもりでいたところ、学生課から、「君は台湾人だから軍需省に勤労奉仕に行くつもりなら、教授の保証が必要だ」と通知してきた。
「どうしてですか」と聞いたら、「秘密をもらすようなことがあったら困るからだ」と言われた。
「ならば、軍需省に行かなくともよろしいのですか?」と聞きかえしたら、「その場合は経済学部の研究室に残って本の整理の手伝いをすればよろしい」と言われた。私は二つ返事で研究室に残りたい旨、申し出た。経済学部には禁書に分類される本がたんとあって、研究室に残れば、特高や憲兵に睨まれることなしに、その中に顔を埋めて読書できることがはっきりしていた。こうして私はたいていの若者たちが学徒動員されて、ろくに勉強もできなかった時期に、ひとり研究室に残って万巻の書をひもとくことができた。私のマルクス、レーニンなどの左翼書に対する知識はほとんどこの時期に習得したものである。
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