台湾にいた時のように、内地人に威張られることもなく、東京の大学にいた時のように、しょっちゅう特高に呼び出されて訊問されることもなかった。食糧事情が急速に悪化したために、時としてうどんを食べなければならないこともあったが、米はこっそり白くついて食べることができたし、マスカットや白桃のシーズンになると、びっくりするほどおいしい果物にありつくことができた。
田園生活はのんびりしていて戦争の緊迫感を忘れさせるようなところがあったが、アメリカ軍の空からの攻撃は日ごとにきびしさを増し、ついに地方都市にまで及ぶようになった。岡山市がやられ、焼け出された松本君の叔父夫婦が避難してきた。田圃に出て稲の手入れをしていると、B29が通りすぎるのが肉眼でも見えるようになった。ある朝、畑に出ていたら、西側で稲光がしたような気がした。間もなく広島に新型の爆弾が落とされ、町中が一瞬で木っ葉徴塵になった噂が西のほうから伝わってきた。どんな爆弾だったのか、どの程度の威力を発揮したのか、誰にもよくわからなかったが、たいへんな被害を受けたことだけは口から口へと伝わった。その正体が原子爆弾という新型の爆弾であることが知られるまでには、まだかなりの時間が必要であった。
私にも、それから大半の日本人にも、原子爆弾に対する予備知識はなかった。ただピカリと光ってドーンと音がしただけで、十万人以上の人が死に、金魚鉢の中の金魚が焼け死にしたと聞いて、きっと長尾の奴もやられたに違いないと胸が痛くなった。もうこれで戦争もいよいよ終りだと私は直感した。八月十四日になって、ラジオ放送で天皇の玉音放送があると報じた時、私は確信をもって
「戦争が終わるんですよ」
と松本君の家の人たちに言った。松本君の叔父さんは、
「そんなことはないだろう。きっと国民を激励されるための放送だよ」
と反論したが、
「明日お聞きになればわかりますよ」
と私は相手にしなかった。
翌日の正午、ラジオの前に皆で集まると、「君が代」が演奏されてやがて玉音放送がはじまった。雑音が入り交って必ずしもよく聞こえなかったが、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで…」という件に及んで、もはや疑いの余地はなくなった。日本国中が大きなショックを受けた瞬間であった。しかし、日本軍の軍靴に踏みにじられてきたアジアの被占領地の人々の反応は、もっと遥かに複雑なものであった。私の場合はせいぜい差別待遇を受けたり、憲兵隊に留置されたり、大学を退学処分にするぞと脅かされた程度にすぎないが、一家皆殺しにあったり、軍刀の試し斬りにあったりした人々がアジアにはどれだけいるかしれない。そういう人に比べたら、私の喜びは小さなものであり、「これでやっと自由になれる。チャンコロと罵られたりしないですむ」というささやかなものであった。
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