田園生活の中で聞いた玉音放送

こうして私は松本君と松本君のお祖母さんと三人で、終戦になるまで松本君の田舎で田園生活を送ることになった。松本君のお祖母さんは、叔父さんと同居していたが、年寄りだと空襲の時に逃げ遅れる心配もあったし、ろくに炊事もできない若い学生のために食事の用意をしてくれる婆さんがいたほうがいいだろうという配慮もあってのことであった。
お祖母さんは七十歳を越えていて、すでに少々呆けていたが、それでも百姓の経験があるから農業の知識はひととおり心得ていた。私たちが自分らの食べる野菜を種蒔きからはじめると、こうすればよろしい、ああすればよろしい、と事細かに教えてくれた。掃除や炊事をしながら、「親の意見となすびの花は千に一つの徒もない」というのが口癖であった。はじめの頃は何のことだかよくわからなかったが、自分で茄子を植えてみると、なるほど花が咲いたあとには必ず実がなる。徒のないことを仇にひっかけて、親の小言の弁解をしているのだとやっと気がついた。
松本君の田舎の家は本宅で、そのすぐお隣りに新家があった。新家の一家は純然たる農家であった。また少々離れたところに内藤さんというこれまた専業農家だが、なかなか手広く農業を経営している親戚がいた。岡山県は全国でも農業の最も発展した地域であり、当時、大学から追放されていたマルクス学者の山田盛太郎教授がとりあげているのを読んだことがある。農家という農家に脱穀用のエンジンが普及しており、戦争中でも食べ物にはさして不自由しなかった。私に田植えのやり方から、牛の使い方、さては炭の焼き方まで実地に手ほどきしてくれたのは、新家の人たちと内藤さんの一家であった。
牛を使って畝を起こすことからはじまって、もし岡山県の田舎に疎開しなかったら、おそらく一生体験することなどなかったことばかりである。あの地方に行くと、猫車という車輪が一つだけの手押しの運搬車があった。両手で把手を握り、首から綱をかけてバランスをとりながら押すと、どんな狭い畦道でもスイスイと通り抜けることができる。その代わり、手加減を間違えるとたちまちバランスが崩れて車ごとひっくりかえり、積み荷がドッとあたり一面に投げ出されてしまう。何回かバツの悪い思いをさせられたが、私は案外器用なところがあって、間もなく山の松の木を切って猫車に載せて家まで運ぶこともできるようになったし、山の中にかまどを掘って炭を焼き、できあがった炭を家まで運び帰ることもできるようになった。
当時、若い者はほとんど兵隊にとられて、農村は人手不足に悩んでいた。私は手間をいとわず自らすすんで野良仕事の手伝いをやったので、松本君の親戚たちからとても親切にしてもらった。
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