どうスレ違ったのか、複雑な心境

戦争が終わると、学徒出陣で大学から姿を消していた学生たちも除隊になって、続々と戻ってきた。反対に、兵隊に行かず九月卒業を目睫(もくしょう)に控えた一握りの学友たちは、就職がほとんどきまっていた。大混乱のただ中とはいえ、東大出は依然としてエリート中のエリートであり、大蔵省とか日銀とか一流銀行、一流商杜から引く手あまたであった。たた、そうした就職事情は私にとってはまったく関係がなかった。
戦争中も戦後も経済学部事務室の入口の掲示板には、求人広告がベタベタ貼られていた。心を魅かれるような求人も多かった。しかし、そのどれも植民地生まれの私には縁がなかった。仮に応募したとしても、玄関払いをくらわされたに違いないし、万に一つのチャンスで採用されたとしても、植民地生まれの人間が、社長とか頭取になれる可能性はまったくないと断言してよかった。戦争中でさえそうだったのだから、日本が戦争に敗れて、役所も大企業も組織が揺れに揺れている最中に、私のような者を拾ってくれる物好きがいるわけがなかった。
それに私は、他の多くの台湾からの留学生たちと同じように、一日も早く台湾へ帰りたいと思っていた。何しろ大半の船が撃沈され、内台航路は途絶してしまったまま、いつ再開されるのか見当もつかなかった。故郷へ帰れるあてもなく、かといって就職するあてもなかった私は、結局、大学院に残るよりほかなかった。あとになって考えれば、私自身は象牙の塔とはおよそ縁の遠い人間だが、その頃は本気になって学者になるつもりでいた。研究室に残ったところで東大教授にしてもらえる見込みはありそうになかったけれども、故郷へ帰れるようになれば、少なくとも台湾大学の教授ぐらいにはなれるだろうとタカをくくっていた。
私は北山教授にお願いして大学院に入れてもらうことにした。専攻科目には財政学を選んだ。自分の国もなかった者が財政学を選ぶなんてことは、ついこのあいだまでは考えられなかったことであるが、日本の敗戦によって自分の祖国があるようになったのだから、財政学を学んで国の役に立てることができたらと思ったのである。先生の諒解を得て私は経済学部に入学の申請書を提出し、正式に許可をもらった。当時、食うや食わずの中にあって、大学院に残ろうと考える学生は皆無に近かった。確か同期生では、難波高校出身で大阪から来ていた薄(すすき)信一君と私と二人だけだった。
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