そうしたある日、私が研究室に出かけて行くと、廊下でぱったりと長尾淳一郎君と鉢合わせをした。一瞬、私は我と我が目を疑った。幽霊に出会ったのではないかとさえ思った。
「おう。まだ生きていたのか」
と思わず叫んでしまった。
「うん。それがまだ生きているんだ」
と、半年前まで一緒になって本の整理をしたことのある長尾君は、ひょうきんないつもの調子で答えた。
「原爆にやられなかったのかい?」
「やられたんだ。でも家の中にいたし、高校時代の霜降りのズボンと白いシャツを着ていたせいか、光線をはねかえしたんだね。ドーンという音とともに家がペシャンコになって、気がついたら玄関の土間に投げ出されていた。その中から這い上がってスタコラ、母や妹の疎開先まで訪ねて行ったんだ」
「よかったなあ。本当によかった」
と、私は思わず相手の肩を叩いた。
「でも、おやじはやられてしまった。ちょうど知り合いに不幸があって、葬式に行く途中だった」
「どこで死んだか、わかったかい?」
「それっきりだよ。死んだ人間の顔形なんか、とても確認できる状態じゃなかったよ」
「そりゃ残念なことをしたなあ。でも君が助かっただけでも本当によかった」
長尾君は第一銀行に就職がきまっており、その準備のために上京してきたのだという。その後、広島の原爆が広く全世界からとりあげられるようになり、原爆後遺症が多くの話題を呼んだが、原爆の直撃にあった長尾君は銀行を定年退職したあとも元気で、今なおちゃんと生きている。
一方、私のほうは大学院に残ったものの、心境的には敗戦に直面した日本人の友人たちよりずっと複雑であった。どこでどうスレ違ったのか、敗戦国のそのまた下積みにされていた台湾人や朝鮮人が一夜にして戦勝国の仲間入りをすることになったのは、主として占領軍の方針によるものであった。アメリカ人が、今までは日本軍にこきつかわれてきた台湾人や朝鮮人を占領国民並みに扱うようになったので、食料品の特別配給もしてもらえたし、新しくできたPXに自由に出入りすることもできた。また満員電車の中に一輌だけオフ・リミットになっていた占領軍用の車輌に乗ることもできた。
何もやらなかった自分たちがそういう特権を享受することに対して、私は抵抗を感じた。それは大学に来ていた私の友人たちにとっても同じであった。私は特別配給をもらうために区役所に手続きに行かなかったし、電車に乗る時もぎゅうぎゅう詰めの車輌のほうに乗り込んだ。しかし神奈川県の高座にある海軍工廠に台湾から徴用されてきた、まだ二十歳にもなっていない一万人近い少年工たちは、学問や教養と無縁だったせいもあるが、外人用の車輌の中でそっくりかえったり、プラットホームで気に入らない日本人に片っ端から暴行を働いて、人々のひんしゅくを買っていた。「なんという恥ずかしいことを!これじゃ日本人が植民地や中国大陸の占領地域でやったことと、寸分違わないじゃないか」と私は煮えたぎる思いで胸の中が一杯になった。
こういう連中がPXから砂糖や石鹸をダンボール箱ごと運び出して闇市に横流しして、占領下の日本で大きな顔をした。そういう連中のことを日本人は心の中で決して宥(ゆる)さなかった。その証拠に、日本人は朝鮮人と台湾人を含めて旧植民地の人々を一括して第三国人と呼び、戦争で日本と正面切って戦ってきた戦勝国民とはっきり区別をした。そうはいっても、ろくな働きもなかった私たち留学生が、食糧不足の東京で何とか食いつなぐことができたのは、大東亜学生寮でそうした特別配給を、それもうんと安い公定価格で受けて、外よりずっとよい生活ができたからである。
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