焼野が原を後に台湾へ戻る

待ちに待ったその日が来た。三月を前にして、妹は日本女子大の卒業式に全校の卒業生を代表して謝辞を読んだ。抜群の成績だったからであろうが、堤孝子というれっきとした日本人だったせいもあろう。しかし、戦争が終わってみれば、妹も邱家の二女であった。邱素沁(そしん)という中国名前は私がつけた。それがその後の彼女の一生の名前になった。卒業証書をもらうと、彼女も私と同じ船で台湾へ帰ることになった。
見渡す限り焼野が原になった東京の街角に立って、私はいったいいつになったら、日本は昔のような日本に戻るのだろうか、と首をかしげながら、道行く人を眺めていた。五十年はかかるだろうと言う人もあった。いや、百年は無理だろうともっと悲観的な論調も新聞に載っていた。そう言われても不思議ではないほど見渡す限りの廃墟であった。荒れはてたこの廃墟をめざして、次から次へと海外から日本人が帰ってくる。こんな狭い国土で、こんな仕事もないようなところで、どうやって八千万人からの人口を養っていくつもりだろうか。自分は年に二回もお米のとれる熱帯の台湾へこれから帰るからいいようなものだけれど、日本国内にとじ込められた日本人は、はたして餓死の恐怖にさらされないですむのだろうか。母の国である日本の将来のことを思うと、私は身震いを覚えると同時に、だんだん空おそろしくなってきた。
自分の都合で私が大学院半ばで東京を去ってしまうと、薄信一君は一人だけでは「東大社会科学研究会」を支えてゆくことができなくなってしまった。台湾へ帰った私は風の便りに、薄君が東大社研を追い出されたか、自分から追ん出たかして、東大社研が全学連の母体として発展的解消をしたと聞かされた。もしそうだとしたら、戦後の日本を震駭させた学生運動の種を蒔いたのはこの私たちだったことになる。ずっと後になって私は東京へ戻って作家になり、東京新聞に頼まれて全学連のデモの取材に行ったことがあるが、あのきかん気の筋金入りのスクラムを目の当たりにして、「昔、全学連、今、資本家の走狗……か」と思わず自嘲的なセリフが口から出てきた。あの時すでに私は経済の発展が日本を世界的な富裕国にすることを予見しており、自分自身が「金儲けの神様」への道を突っ走ることになるだろうことを自覚していた。
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