薄君は大阪商人の息子で、きわめて実利的な環境に育っているので、卒業とともにどこか銀行か商社にでも入るのかと思ったら、私の予想を裏切って大学院に残った。とてもマルクス的な発想に甘んずる人ではなかった。が、私は私で、戦争中は雨戸をおろし、カーテンをかけて、こっそり左翼の禁書を読み漁ったくせに、戦争が終わって左翼の本が禁書でなくなってしまうと、もうすっかり熱が冷めてしまっていた。
私たち二人に比べると、その他大勢のマルクス・ボーイはまだほんのかけ出しにすぎなかったから、『資本論』の輪読会をやろうなどと青臭い主張ばかりが目立った。それに対して私は、読書など自分一人でもできる、せっかく皆で集まるのだから、皆で手分けをしてグループのメリットを生かした仕事をやろうじゃないかと提案した。たとえば、焼跡のバラックに住んでいる人たちの実態および輿論調査である。私の提案が一番具体的だったので同調してくれる人もたくさんあって、私は薄君と徹夜で調査事項を具体的に書き出した。家族何人で住んでいるとか、バラックのスペースはどのくらいかとか、一ヵ月の生活費はいくらで、収入や貯蓄はいくらあるかとか、さては天皇制のことをどう思っているかといったことまで、二枚くらいの紙の中におさまるような質問事項を整理した。
これらの草案はすべて経済学部研究室の謄写版と紙と計算機を使って集計することになっていた。勤労奉仕を研究室でやり、事務室主任の太田さんをはじめ、女子事務員がいずれも喜んで協力してくれた。私は東大新聞に足繁く出入りしており、当時、大学新聞の編集長であった桜井恒次さんと昵懇にしてもらっていた。調査の結果が出たら、大学新聞に発表させてもらうことについても、事前に話がついていた。
しかし、いざ実行までこぎつけると、三百人集まっていた会員がたったの三十名に減ってしまった。血の気の多い学生たちは皆で集まって気焔をあげることには興味があるけれども、地道な調査には魅力を感じない模様だった。それでも私たちは挫けずに、三十名で手分けをして、大森区とか、蒲田区とか、荏原区とか、さては小石川区とか、本郷区とか、いまでは統廃合されてなくなってしまった地区にあるバラックを丹念に、一軒一軒訪ねて聞いてきた答えを分類集計してデータをつくりあげていった。機械式のタイガー計算機をその時はじめて使った。いまの電卓と違って操作もむずかしく、手間もやたらにかかり、そのうえ不正確であった。それでも曲がりなりに結論を出し、私の名前で大学新聞に「壕舎生活者の実態及び輿論調査」と題して、半ペラしかなかった新聞の裏面の全ページを使って発表した。一週に一ぺん出る新聞の全体の半分をこのためにさいてくれたのだから、桜井さんもずいぶん思い切ったことをやったものである。
あとになって考えてみると、これは今しょっちゅう大新聞の大きなスペースを占めている実態調査や輿論調査のハシリだった。米軍占領下におかれていた大新聞杜にはそういうことを思いつく人もいなかったし、それを発表するだけのスペースの余裕もなかった。まったくの偶然だが、それを一介の大学院生だった私が思いついて友人の協力を得て切り開いたことになる。将来、自分がジャーナリストになるかもしれないと思ったことはたったの一度もなかったが、自分が自分で考えて新しいニュースの源を切り開いたとすると、もしかしたら自分はジャーナリストになったら大成したのではないかと思ったりした。
私の調査が新聞に載ると、面白いことに朝日、毎日、読売、それに日経までが、私のレポートの内容をニュースとして紹介してくれた。自分の名前がそれによってあまねく知られるようになったわけではないけれども、学内ではかなり面目をほどこした。それにすっかり気をよくして、年が明けると、上野の地下道でごろ寝をしていた浮浪者たちの実態及び輿論調査にも手を出した。
しかし、その仕事を手がけているうちに、突然、朗報が私のところへとび込んできた。台湾からの引揚げ者を乗せるために横須賀港から船が出る、その船に乗れば台湾へ帰れるから、早く用意するように、ということだった。
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