さよなら、私の台湾  密輸船で日本再渡航をくわだてる

戦争の終結した翌々年の一九四七年に、事もあろうに台湾の独立をくわだてるのは誰が見ても、正気の沙汰ではなかった。しかし、二・ニ八事件で多くの無辜の同胞が虐殺されるのを見て、黙っているわけにはいかなかった。蒋介石が麾下の彭孟緝(パンマンチイ)に命じて民衆に対して無差別銃撃を加えた無謀なやり方は、天安門事件の比ではなかった。もし天安門事件で逮捕命令の出された民主運動の若者たちが、正義感に駆られて反政府運動を起こさなかったとしたら、皆さんだって彼らの真意を疑いたくなるだろう。
当時、私はまだ二十三歳の若者だったし、正義感に燃えていた。国民政府に日本統治時代よりもっと苛酷な植民地扱いを受けたのでは、台湾人の将来が思いやられると心が痛んだ。唯一の方法は、台湾を国民政府の桎梏(しっこく)から引き離すことだった。カイロ会談にも臨んだくらいだから、蒋介石の存在は大きかった。その支配から脱れることは容易なことではない。陰謀が震見しただけでも生命はないと覚悟しなければならなかった。政府に批判的な言辞を吐いただけでも、共産党の帽子をかぶらされ、すぐにも軍事裁判にかけられ、銃殺されることが珍しくなかった時代のことである。
私の周辺の人たちはみな政府に対して猛烈な不満を持っていた。しかし、誰一人、正面切って政府に刃向う人はいなかった。反政府運動をやるためには同志を集めなければならないし、ゲリラ隊を組織しなければならない。私にはそういう経験もなかったし、そういう指導者もいなかった。それに本当のところ、それだけの勇気もなかったから、私の頭には、海外に出て、外から働きかけることばかりがこびりついていた。孫文だって、ハワイや日本にとび出して外から清朝政府を相手に戦ったではないか。そう自分に言いきかせた。しかし、実際に自分が外へ出て、香港や東京から独立の呼びかけをしてみると、そんな掛け声は波の音にかき消されて誰の耳にも届かなかった。本当の革命は、共産党にそのお手本があるように、ゲリラからはじめるのが本筋であることを悟るのにたいして時間はかからなかった。
勇気のない私は、本能的に危険に曝されることの少ない道を選びたかったのであろう。そのためには、もう一度日本へ戻るのが最善の道のように思われた。当時、日本人を乗せるための引揚げ船は来ていたけれども、日本人の引揚げ者しか乗せなかった。私の次の弟の耕南は、堤稔という日本籍を持っていたので、台湾大学へ行くより東京の大学にでも行ったほうがいいという母親の意見もあって、引揚げ船に乗って日本に戻った。その少し前に上海からいったん台湾へ引き揚げていた私の姉も、亭主と息子ともども、同じように日本へ引き揚げて行った。
私だけが台湾籍であるために、台湾に残されてしまった。あとになって考えてみると、ゲリラをやるだけの機転がきいたら、引揚げ船の中にもぐり込むくらいのことは何でもなかったはずだ。
これまた国民政府の連中がわれわれに毒づいたように、何事もまともに受けとる「日本帝国主義的教育」の害毒におかされた証拠であったのかもしれない。
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