私に残された唯一の道は、非合法のヤミ船に乗って日本まで辿りつくことであった。日本と台湾の間は交通が途絶えていたが、蘇澳(そおう)港とか、淡水港から砂糖を積み込んで、与那国経由で日本へ密航する漁船の便があった。高校時代のクラスメイトの兄貴がその仕事に詳しいときいたので、わざわざ淡水港までその話をききに行ったことがある。一番小さい船だとたったの八トンで、甲板に砂糖を山積みにし、雨に濡れないようにその上からテントをかぶせる。人間の寝るところがないので、荷主は甲板の船べりに横たわり、夜など「いい月だな」と手をあげておろしたら、海の水に手が届いたという危険きわまりない航海だと言う。
それでも生命知らずの冒険家たちが跡を絶たないのは、当時、甘い物の欠乏していた日本まで砂糖を運ぶと、十倍にも売れたからである。船主と荷主で半分わけにしたとしても、五倍の稼ぎになる。
その話をきいた途端に、私はもう密輸船に乗ったつもりになっていた。私はすぐ台南市の自分の家へ帰り、母親に最後のおねだりをした。母は自分のへそくりの中から、砂糖を五十俵ほど買えるだけの現金を出してくれた。友人の兄貴が船主を紹介してくれ、条件もとり決めてくれた。
砂糖は現物出資をしてくれる人が別にいるから、油を買ったりする船主側に出資してくれれば、同じだけの分け前をくれると言う。私は要求されたとおりの代金を支払い、自分が出資した、船の確認をするために梧棲(ごせい)港(今の台中港)まで出かけて行った。梧棲港につながれていた百トンあまりの木造船に砂糖を積み込むものとばかり思っていたら、空船のまま出発し、途中、心さな漁港に寄って真夜中にそこから積み込むんだそうである。いつどこで積むかはいずれ知らせるから、いつでも出発できるように待機してくださいと言われて、いったん台北市に引き揚げた。
いよいよ今晩出帆するという日に、連絡があった。私は小さなトランクを一つ用意して、新竹県のさる漁村に連れて行かれた。日が暮れると、波打ち際から少し離れたところに件の船が姿を現わし、それを合図に漁村のあちこちの家にかくしてあった砂糖入りの麻包を、村中の男女が一斉に運び出した。まず筏に積んで木造船のそばまで運び、そこで大きいほうの船に積みかえる。
密輸とはいえ、ずいぶん大がかりなものだな、とすっかり感心して見守っていた。ところが、中途まで積んだところで突然、大波が打ちよせ、百トンの船が浅瀬に乗り上げてしまった。砂糖を積み込むどころか、逆にいままで積み込んでいた砂糖を下ろさなければ船は浮かび上がりそうもない。運も悪かったが、魚をとることしかできない漁村の人々には予想もできない事故だった。
そうこうしているうちに夜が明けそうになった。船主も荷主も浮き足立ってしまった。密告があったのかどうか知らないが、海岸線の防衛隊がこちらに向っているというニュースが入ってきた。「つかまったらバカらしいから、一応、引き揚げることにしよう」と友人の兄貴に言われて、私はそそくさと現場をあとにした。
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