三日も蔡さんとつきあっていると、密輸船の全貌がだいたい私にもわかってきた。密輸といっても、それば相手国が輸入を制限したり禁止したりしているだけのことで、香港側は別に制限があるわけではなく、したがって罪を犯しているという意識はないし、万一、相手国で御用になっても、「運が悪かった」ですむような商行為であると香港の人は割り切っていた。たまたま香港周辺の国々が外貨の不足でほとんど禁止に近いような高率の関税を課していたから、こういう商売が成り立つのであり、またそのおかげで香港が繁栄しているのだと言うこともできた。
当時の日本は米軍の占領下にあったし、物資が欠乏して砂糖もサッカリンもなかった。またストマイやペニシリンのような新薬にも事欠いていた。多少の危険は伴ったが、日本から香港まで買出しに来れば、相場のよい時は八倍にも十倍にもなった。台北にいた時も漁船に砂糖を積んで日本に行くことを企てたくらいだから、それに比べるともっとずっと安全なルートであり、きいていた私の心は動いた。大きな鉄製の貨物船なら漁船のように浅瀬に乗り上げたり沈没したりする心配もないし、現に目の前でそれをやっているのを見ているのだから、私は蔡さんに、自分もいくらかお金を出したいがどうだろうか、と相談を持ちかけた。
「あんまり期待が大きいと困るけれど、まあ、一往復で倍になるくらいのつもりなら」
と察さんは私に同意した。お金を出すといっても、私の全財産は千ドルしかなかった。その中から万一のことを考えて生活費も残しておかなければならなかった。だから私は半分の五百ドルを出して蔡さんのベンチャー・ビジネスに賭けることにした。蔡さんは私と香港の町を歩きながら、靴屋があると、中に入ってラバー・ソールを買ったり、洋品店があると、男物や女物のセーターからマフラーまで買い入れた。フィンテックスの洋服地も買った。船員として乗り組むのだから、持って入れないのにどうするのかときいたら、京都の自分の家宛に郵便小包で送ってくれないかと言う。こういうものは物資不足の日本ではなかなか手に入らないし、ヤミで買おうとすると、香港の何倍もする。そんなものをどうして郵便小包で送れるのですかときいたら、一家で使うていどの量なら占領軍が救恤(きゅうじゅつ)小包として許可するのです、と蔡さんが説明してくれた。蔡さんが無事、貨物船に乗りこんで香港を離れると、私は言われたとおり郵便小包をつくって九龍郵便局に持って行った。郵便局では、難しい質問などいっさいなしで、小包を受けつけてくれた。
香港を発つ時、蔡さんは日本へ帰ったらすぐまた来るから、と言って私に別れを告げた。しかし、そのあと待っても待っても蔡さんは姿を見せなかった。なにしろわずかしかなかった全財産の中から半分を出したあとだったから、もしそのお金が戻って来なかったら私はこの先どうしていいのか、自分でもわからなかった。蔡さんを男と見込んでやったことだが、見立て違いということが起こらないとも限らない。進退きわまって、私は毎日を悶々として暮らした。
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