さすがの私も神経質になり、眠られないままに夜明けを迎える日々が続くようになった。収入の道もなく、持ち金も減る一方であったが、時間だけはあまった。私には読書の習慣があったが、私の読みなれた日本語の本は売っていなかった。仕方がないから、英語の本屋に行って、ディッケンズやD・H・ロレンスの小説本を買ってきて、英和辞典と首っ引きでイギリス文学の本に読み耽った。ロレンスの『息子と恋人』を原文で読んだのもその頃で、私はイギリス人の間で高く評価されているというディッケンズには最後まで馴染めなかったが、ロレンスからは感銘を受けた。日本で学んだ英語だから私の語学力のほどは知れているが、ロレンスの文章はさらりと書かれていて、推理小説的なストーリーの運びからは遠かったが、読んだあとに全体のイメージが大きく浮び上がり、「やっぱりこの人は大作家だなあ」という印象がいまも残っている。
ヒマに任せてずいぶん本を読んだつもりだが、それでも時間があまった。時々、廖さんに見せてもらった『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』という香港の英文雑誌によく台湾のことが書かれており、国民党に対しても歯に衣を着せない批判を平気で載せていたので、もしかしたら自分の文章を載せてもらえるのではないかと考えて編集長を訪ねて行った。香港郵便局のすぐ近くのコローニアル風の古い建物の中にあって、ヘルパンという年配の編集長が出て来て、快く迎えてくれた。
私がしどろもどろの英語で、自分は台湾からの亡命者であり、台湾で何が起こっているかをよく知っていると自己紹介をしたら、じゃ、私のところの台湾通信員ということにして、月に一回、フォモサ・コレスポンデンスを書いてくれませんか、とその場で依頼を受けた。原稿料をもらえるかもしれないということよりも、文章を載せてもらえるというだけで私は天にも昇る心地になった。
英語には自信がなかったので、まず日本語で書き、それを自分で英語になおした。それを廖文毅夫人になおしてもらった。廖夫人はアメリカ人だったから、文章の専門家でないにしても、少なくとも私よりはましだと思った。それをもう一度タイプに打ち直して、自分でヘルパンさんのところへ持って行った。私の書いた台湾通信は毎号必ず雑誌に載った。三号目を書いて私が届けに行くと、「ハイ。これはあなたの原稿料です」と言って、封筒に入った小切手を私に渡してくれた。外へ出て封筒の中身を見ると、小切手に香港ドル百ドルと書かれていた。これは私が香港に来てはじめて稼いだお金であった。はじめて稼いだお金が原稿料だったことも驚きであったが、それより貰えるとは思っていなかっただけに感激もひとしおだった。
その感激がよほどのショックになったとみえて、翌朝起きて新聞をとると、活字がボーッとしか見えない。「この新聞、変だなあ」と廖兄弟の阿農(アーロン)という兄貴のほうに見せると、「どこが変ですか?」とききかえされた。変なのは新聞ではなくて実は私の目のほうだった。毎晩のように不眠の夜が続き、ぐったりしていたところへいきなり百ドルのお金がころがり込んできたために、ドッと疲れが出て目の前がボーッとなってしまったらしいのである。
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