字が見えないと、新聞も読めないし、タイプも打てない。背に腹はかえられないので、皇后大道中(クイーンズ・ロード・セントラル)にある眼鏡屋に行った。度数をはかるレンズをあれこれ入れかえられて、近視のほかに乱視も出ていることがわかった。すすめられるままに枠を選び、「いくらですか?」ときいたら、「八十五ドル」と言われた。気が転倒していたので、私は値切ることも忘れて、言いなりの八十五ドルを支払ってしまった。
店を出てから、よくよく考えてみたら、三ヵ月もかかって稼いだ百ドルの中の八十五ドルを眼鏡代に持って行かれ、手元には十五ドルしか残っていなかった。こんな割りに合わない仕事がまたとあるだろうか。もともと英語で文章を書くのは苦手だったし、これ以上、通信員の肩書で台湾政府の暴政をあばいても、台湾政府にとっては痛くも痒くもないことである。とうとう私は眼鏡の一件がきっかけで『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の執筆をやめてしまった。
といってほかにすることもないので、相変らず英語の小説本を読み耽っていた。しかし、本を読んでいるだけでは時間があまった。かといって廖家の五匹の飼犬を散歩に連れて歩くことは私にはできなかった。私は犬が嫌いで、犬になめられただけで逆毛が立つ体質だったからである。
ちょうどその頃、廖夫人は毛糸を買ってきて、子供たちのセーターを編んでいた。それを見て、私は「これなら自分にもできるのではないか」と思い、「毛糸の編み方を教えてもらえませんか?」と申し出た。廖夫人は「ええ、いいですとも」と二つ返事で承知してくれた。
毛糸は既製品のセーターやチョッキよりずっと安かった。私は自分のセーターやマフラーを自分で編む決心をして自分の好みの色の毛糸を買いに行った。それから教えられたとおりの編棒も買ってきた。まず毛糸をほどいて丸い玉にまきなおし、一から手ほどきをしてもらってセーターを編みはじめた。私は生意気にも最初から二色で縞模様に編むことを思い立ち、一定の幅まで編むと、色の入れ替えをした。はじめは馴れないせいもあって、スピードも遅かったし、力の入り方が一定しなかったために、ところによってゆるみが出たりしたが、そのうちにしぜんに手が動くようになり、人とお喋りをしながらでも編みすすむことができるようになった。
私が編物をしていると、窓の外を通りかかった近所の工人(コンヤン・女中さん)が、「あれっ、男の人が編物をしている。手間賃いくらかきいてくれませんか?」と阿二(アーイー)姐さんに尋ねた。その話をきいてもさすがに編物で生計をたてる気はなかったが、台湾のロレンスを志した男が、香港くんだりまで流れてきて、どうしてなすこともなく編物なんかしているんだろうかと、情けなさに涙がこぼれそうになった。しかし、それでも私は自分のセーターとチョッキとマフラーを一通り編み上げた。それが全部完成しても、私の生命の次に大切な五百ドルは戻って来なかった。途方に暮れながらも蔡さんが来る日を心待ちに待つ日が続いた。
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