青春の賭けに破れて商人となる 国民党の要職者丘念台氏との単独会談

亡命をするということは待つことだということを知ったのは、自分が香港に亡命してからのことであった。香港は亡命者の天国で、表立って派手な政治活動さえしなければ、刺客にでも襲われない限り生命の安全は保証されたし、身柄の引渡しを要求されることもなかった。私が亡命する少し前に、ベトナムの皇帝バオダイが亡命していたこともあったが、ちょうど私が亡命した頃は、共産党に追われた国民党の政治家や将軍たちが次から次へ亡命してきた。資本家とか地主とかに対する毛沢東の追撃に容赦はなかったから、これらの人々も、持てるだけの財産を持って、それこそ生命からがら香港に逃げ込んだ。
それらの人々の中で、アメリカにコネのある連中は、さらに香港からアメリカに渡ったが、捲土重来の夢を持った将軍たちの中には、蒋介石の台湾入りをみて、それに続く者も現われた。しかし、私や私の同志のように、蒋介石が逃げ込むのと逆の方向に逃げる人間にとっては、香港が唯一の亡命先だった。ただ、共産党の追撃を受けて南京から広州、広州から重慶、さらに重慶から成都へと遷都を続ける国民党政府のあわただしい動きの中に、アメリカが国民党政府の台湾入りを阻止する可能性があり、事と次第によっては、「台湾人の台湾」が実現できるチャンスがあった。
事実、アメリカ国務省の中には、そういう意見の人もいたし、そういう動きに敏感な台湾の政客の中には、わざわざ台北から香港にとんできて、廖文毅さんに面会を申し込んだ人もあった。
その中の一人が国民党から重用されていた丘念台さんであった。私と同じ姓(邱と丘は同じ)の丘念台さんは、明治二十七、八年の日清戦争で清朝が台湾を日本に割譲した際、それに反対して日本軍の上陸に抗戦した丘逢甲という人の息子であり、大陸に逃れた父親は台湾のことが忘れられずに、生まれた息子に念台という名をつけた。その念台さんは、終戦後、陳儀の台湾入りと同時に台湾へ帰って、国民党本部の要職についていた。この人がいきなり香港にやってきて、台湾の独立を主張している再解放同盟のボスに会いたいと言ったから、私たちは驚いた。

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