蔡さんがあまり関心を示してくれなかったので、私は、別のパートナーを見つけるよりほかなかった。東京には大学時代の友人がたくさんいたが、東大出にこんな仕事を手伝ってくれそうな者は一人もいないし、私の姉は日本人と結婚して、上海で終戦を迎え、台北経由で東京に引き揚げていたが、東京へ帰ってから意見が合わなくなって離婚をしていた。また次の弟は、台北高等学校を卒業したところで終戦を迎え、大学は日本のほうがいいという私の母の意見もあって、日本人として引揚げ船に乗って東京へ渡っていた。しかし、大学へ行くどころか、立川あたりでヤミ屋の仲間入りをしていると風の便りにきいていた。のちに弟は、私にきつくさとされて(というのも私の家では、兄弟の上の者に絶対的な権威があるように教育していたので、弟たちは私のことをとてもこわがっていた)あわてて大学の受験に行った。立川に住んでいたので、一橋大学を受験するように言いつけ、弟もそのつもりで近所の大学に受験に行ったが、合格の通知を受けるまでそれが東京経済大学であることに気づかなかったというエピソードがある。「お前、よくそれで津田英学塾と間違えなかったものだな」と兄貴の私からからかわれたことがある。
弟はまだ二十歳になったばかりだし、そんな仕事が任せられるとも思わなかったので、私は自分の姉に手紙を書いた。姉は臼田金太郎というボクサーあがりの事業家と再婚しており、自分の亭主に相談した上で、まず試験的に自分のところ宛に小包を送ってみたらどうだろうかと言ってくれた。私は千ドルしか資本にするお金を持っていなかったが、その中からまず小包を二つつくって、指定された住所宛に送った。はたして小包が無事着いてくれるか、また着いた小包の中身がちゃんと商品として売れるか、を待つ時間がずいぶん長かった。
香港から横浜までなら貨物船でも一週間くらいで着くのだが、郵便物を積む船もあれば、積まない船もある。その船が先に下関とか、神戸に立ち寄ることもある。また小包はいったん東京駅前にある中央郵便局の税関で検査を受けてから地方郵便局にまわるので、そのための日数も必要だった。だから、かれこれ二十日もかかってしまったが、最初の小包が無事ついたことを姉の手紙で知らされた。当時の日本は物資欠乏の只中であったから、小包の中身はまわりにいる人だけで処分できた、とその手紙の中に書かれてあった。
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