王育徳君は私と同じ台南市の出身で、いい意味でも悪い意味でも、私のライバルであった。私が日本人(当時の内地人)の行く南門小学校から台北高等学校の尋常科に入学したのに対して、彼は台湾人(当時の本島人)の通う末広公学校から尋常科を受験し、不合格になってしまった。
しかし、台南一中の四年修了で台北高等学校に入学できたので、再び私に追いつき、ここでクラスメイトになった。彼には王育霖という兄さんがいて、私より三級上にいた。兄弟二人とも秀才だったが、家庭の事情が複雑で、ともに第二夫人の子供であるために、家の中では肩身の狭い思いをしていた。そのことを兄さんのほうが小説に書いて校内雑誌に発表したので、日本の家庭では考えられないことだっただけに、先生たちの間でも評判になった。
兄さんのほうは台北高校を卒業すると、順調に東大法学部に進学し、卒業してしばらく日本の法院に勤務していたが、終戦後、台湾へ帰って新竹市の検察官になった。たまたま外省人の新竹市長がアメリカからの救援物資である粉ミルクを横流ししたことが露見したので、検察局の逮捕状を持って検挙に行ったところ、逆に警察官に包囲されて逮捕状を強奪された。帰って上司に報告すると、「逮捕状をとられるとは何事だ。責任をとれ」となじられ、怒って退職届を投げつけて職を辞した。
あの当時の日本教育を受けた者は、私も含めて、みな日本の帝国主義的教育の洗礼を受けた者と非難され、肩身の狭い思いをさせられた。育霖さんは司法界に再就職することはあきらめ、建国中学という高校の英語の教師となった。そこへ例の二・二八事件が起り、大陸の援軍が到着して粛清がはじまると、ドサクサにまぎれて、新竹から警察大隊が育霖さんの家まで押しかけてきて本人を引き立てて行った。それっきり育霖さんは二度とこの世に姿を現わさなかった。「検察官」という私の小説は、この王育霖さんをモデルにしたものである。
一方、弟の育徳君は、せっかく台北高校で私に追いついたのに、東大経済学部の受験をするところでまた私に立ち遅れてしまった。翌年もう一度受験をしなおしたが、ここでも不合格になってしまい、あきらめて文学部の中国文学科に入学した。台湾人がわざわざ東大に行って中国文学の勉強をするのは何とも不思議なことであるが、台湾人にとってはそれがエリートに許された唯一の選択だった。学部が違っていたので、一緒になるチャンスはあまりなかったが、私が重慶のスパイという嫌疑を受けて憲兵隊につかまったことをきいて、驚きあわてて私からきた葉書や手紙を焼いたことがあった。「焼いているところを人に見られたら困ると思って、部屋の中に洗面器を入れて畳の上で焼いたら、このとおり畳が焦げてしまってねえ」と下宿の焦げた畳の跡を見せてくれたことがある。

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