そういうところは、肝っ玉が小さいというか、正直というか、私を苦笑させるばかりであったが、大東亜戦争が激化すると、「いまに日本は戦争に負けるぞ。日本にいたらたいへんなことになる」と、日本が敗戦した時のことを読んで、せっかく文学部に入ったというのに、一年生の在学中にそのまま台湾に逃げて帰ってしまった。
戦後、私が故郷の台南市に帰った頃、彼は台南一中(当時、一中が二中に格下げになり、本島人の行く二中が一中に昇格していた)の教師になっており、私の三番目の弟の振南がその教え子になっていた。その育徳君がある日、何の前触れなしに突然、台南市から飛行機に乗って香港にいる私を訪ねてきた。
「来る前に手紙しようと思ったんだが、万一、手紙が検閲にひっかかるとヤバイと思っててねえ、君の弟に住所だけはきいてきたんだ」
と王君は弁解した。
「いったい、どうしたんだね。香港くんだりに高飛びしても、このあとどうやってメシを食っていけばいいか、わからなくなってしまうよ」
と私は本音を吐いた。
「それでもふんづかまって火焼島に流されるよりはましだよ。僕の周囲でもすぐ近くまで捜索の手が伸びてきて、いよいよ僕の番だというところまで来てしまった。だから女房からも、とにかくあなただけでも先に逃げてくださいといわれてとび出してきたんだ」
「で、これからどうするつもり?」
「日本に戻ってもう一度、大学に行くことにするよ。学歴が中途半端ということで台湾に帰ってからみじめな思いをしたから、大学はちゃんと卒業することにしたい」
「うん、僕もそれがいいと思うよ」
香港くんだりまで流れてきて、精神的にも経済的にもみじめな思いをしている自分の実感からいって、私は王君の選択に賛成だった。約一週間、私と同じ居候を廖家でやった上で、王君も、荘要伝さんの時と同じヤミ船の世話になって横浜に向かった。日本へ戻った王君はもぐりだったから、在留資格をとることができなかった。しかし、恩師倉石武四郎教授の口ききで、もとの中国文学科に復学できたことを本人からの手紙で知った。
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