といっても、居候していた家で、主人面はできないし、またほかに居侯が一杯いるところで、自分だけ勝手にふるまって人からよく思われるわけがない。幸いにも小包屋は順調に推移していたし、ふところ具合も信じられないくらいよくなってきた。いまでは高級マンションの一室を借りて住むくらいの余裕があるようになっていた。私がマンションが欲しいと言うと、阿二がすぐブローカーにわたりをつけ、間もなく諾士佛台の廖家から徒歩で五、六分のところにある漆咸圍(ツァッハムウイ - 英語でチャタム・コート)というところに新築されたマンションの一階が見つかった。家賃は香港ドルの五百ドルで、敷金は家賃の二十倍の一万ドルだった。
香港へ流れてきて約二年、はじめはどうなるかとおそれおののいたが、どうやら高級住宅地にマンションを構える身分になった。それは「生命からがら逃げのびた」亡命者にとっては思いもよらなかったことだったが、無一文に近い状態からスタートしてどうしてこういうことになったかは、まったく想像の外と言ってよかった。私が引越しをきめると、簡君も私について行くと言い出した。彼はお金を持っていなかったから、私について行くということは、廖さんの家の居候から私の家の居候に鞍替えするということにほかならなかった。しかし、簡君は他人の家で小さくなっているような居候ではなかった。私にとっても何でもやってくれる便利な居候であったから、生活費を代わりに払ってやることが負担になるとは全然思わなかった。
お金ができたので、私は自分がお金ができたらやりたいと思うことはひととおりやることにした。居候をしていた頃、夕食後散歩の度にギルマン・モーターズのショー・ルームを覗き込んで「こんな車が持てたらなあ」と言っていたから、早速オースチン70という車を買った。まだ自動車の免許を持っていなかったので、阿劉(アラウ)という運転手をやとった。運転手の給料は香港ドルの二百ドルだった。
私はまだ二十六歳だった。二十六歳で高級マンションに住み、運転手つきの自家用車を持つことは、香港のような生き馬の目を抜く港町でもそうたくさんあることではなかった。内心いささか得意にならなかったと言ったら、嘘であろう。でも、手放しで得意になったわけではなかった。
私は政治的亡命者だったし、パスポートも持っていなかった。だから、この町から外へ出て行くこともできなかった。青春の賭けに破れた亡命者が、金があるというだけではそんなに自慢にならないといううしろめたさもあった。
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