おかげで、私は台湾を去って一年あまりたった頃になると、どうやら自活できる道がひらけてきた。収入があるようになった以上、そういつまでも居候をきめ込むわけにはいかない。まず自分の食い扶持は自分で負担することにした。たとえ同じ家に住んでいても、居侯と下宿人とでは、気分がまるで違う。私は少し元気になったが、廖博士のほうは私とは反対に、気分的にだんだん減入っているようだった。すでに蒋介石の台湾入りは現実のものとなり、台湾に逃げ込んだ国民党政府を支持することによって中国共産党に対抗するアメリカの基本方針は不変なものとなってしまった。もはや「台湾人の台湾」を実現するチャンスはなくなったも同様だし、あとはゲリラを組織して実力で国民党政府を台湾から追い出すか、でなければ身の安全な海外にいて「犬の遠吠え」をやる以外に方法はなくなっていた。
もし私にカストロとかゲバラとかいった人ほどの勇気があったら、私は漁船にでも乗って台湾へもぐり込んで、武力に訴える道を選んだことであろう。しかし、正直のところ、国民党政府に不満を持った台湾の知識分子の大半は、自分の実力ではなくて、外の力をかりて独立をかちとりたいという虫のよい考え方をしており、私もその例外ではなかった。外へとび出して叛旗をひるがえすだけでも生命懸けだった時代だから、「自分らは勇気のあるほうだ」と自已弁護したが、本当は中途半端の勇気しか持ち合わせていなかった。おそらく廖博士も、口に出してこそ言わなかったが、心の中では自分のやってきたことの限界を感じはじめていたのではないかと思う。
もっとも、運動が完全に挫折したとは誰も思っていなかった。もし国民党政府の暴政から台湾の人たちを救うことが天の声であるとすれば、暴政からの解放は長い苦難の道に変わっただけのことで、それで終ってしまったわけではない。先に延びたけれども、長い時間をかけてやらなければならないことに変わりはない。ついにこれは一生背負って歩く重荷になってしまったなぁ、というのが私の実感であった。
それでも私はまだ若かったから、環境に適応する能力があった。この家の居候になったばかりの頃は、阿二(アーイー)という女中さんにもいじめられ、風呂に入った時に脱いだ下着を廖家の人々のそれとふり分けられ放置されたものだが、少々金まわりがよくなると、私はチップをやることにも要領を得るようになった。おかげで、ベッド・メーキングから、風呂の用意まで何でも快くやってもらえるようになっていた。
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