さきにも述べたように、ふところ淋しい状態で香港に紛れ込んだ私は、居候していた家の工人(コンヤン・女中さんのこと)にまで存在を無視された。しかし、少々お金ができたのと、どうすればよいかという要領を覚えたのとで、私はみなからちやほやされるようになった。なかでも廖家の工人の阿二姐(アーイーチエ・姐はねえさんの意味)は打って変わって私に親切になり、私のために使い走りをいとわないようになった。多分、彼女が手をまわしてたのんだのであろう。こちらが何も言わないのに、すぐ近所に住んでいた趙太太(チュウタイタイ)という奥さんが私のマンションに訪ねてきて、お嫁さんを世話しましょう、と言ってくれた。趙太太というのは台湾生まれの女性で、且那は洋服地をイギリスから輸入する広東人で、貿易商をやっていた。台湾から来ている若い人たちの世話を何かとやいてくれるので、私も廖兄弟たちもその家に遊びに行ったことがあった。でもまさか嫁さんの世話をしましょうと言われるとは思っていなかったので、返事に困って、「僕のような風来坊はまたどこに行ってしまうかわかりませんから・・・・・・」とその場で断わった。
するとそばで話をきいていた簡世強君が「ちょっと、ちょっと」と私を手招きして脇に呼んで、「そんなバカな断わり方をする奴がいるか」と小声で言った。
「そう言ったって、明日にもどこへ行ってしまうかわからない生活をしているんだよ。嫁さんや子供がいるようになったら、足手まといになって困るじゃないか」
「そういう時は置いて行けばいいじゃないか」
と簡君はズバリと言った。
私は思わず簡君の顔を見据えた。いわゆる「日本帝国主義的教育」を受けてきた真面目な私には、そういう発想がまるでなかった。でも、言われてみれば、そういう発想があってもおかしくはない。簡君に何回も口説かれて、とうとう見合いに行ってみる気を起こした。
その時の見合いの相手は幼稚園の先生をやっていた女の子で年はまだ若かったが、黒いロイド眼鏡をかけ、一見、××女史風の娘さんだった。幼稚園の先生は、子供にやさしくて、辛抱強くて、気配りも行き届いていていいと思うが、あいにくと私は女の子のロイド眼鏡にはとんと感じない。まさか面と向かってそんなぶしつけなことは言えないし、広東語の語学力も不足していたので、二言三言喋っているうちにたちまち話題に詰まってしまった。「じゃ、そのうちに映画でも見に行きましょう」といって別れ、それっきりになってしまった。
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