私は家の中に纏足のおばあさんもいる台湾の家庭に育ち、フツーの日本人に比べるとまるで違った環境でオトナになったつもりだったが、とてもそれどころのことではなかった。
しかし、実際は案ずるより生むがやすしだった。家内の実家に着くと、すぐ客間に通された。
待つ間もなく彼女の父母が入ってきた。
「阿(アテー)、阿媽(アマー)」(お父さん、お母さん)と呼びながら、家内は両親の前に脆いた。まさか自分だけそこに突っ立っているわけにもいかなかったので、私も一緒になって膝をついた。と、すぐにも私たちは立つように促された。次の瞬間には、応接間の深々としたソファの上に坐らされていた。
こうして私は潘家の三番目の婿として迎えられたが、向うの兄弟全部を相手に大喧嘩をしたあとだけに、潘家では最もこわもてのする婿殿として鄭重に扱われるようになった。潘家の人たちは人使いが荒い。娘が五人いて四人がすでに片づいていた。どのお婿さんも人が好いのをいいことに、自動車のガソリンを入れてこい、今晩の映画の切符を買ってこいと使い走りをさせられたが、私にだけはそんな役回りはまわってこなかった。誰一人、私に雑用を言いつけるような勇気のある奴はいなかったのである。
家内の父親は潘逸流と言って、香港や東南アジアや広東省の人なら誰でも知っている潘高寿川貝枇杷露(プンコウサウチュンペイピイパロウ)という漢方薬屋の五番目の息子だった。漢方薬屋は四番目の兄さんが継いで二番目の兄貴と家内の父が香港へ出て貿易商になった。家内の父は、若い時は黄埔(こうほ)軍官学校の一期生として入学したこともあるが、家中が軍人になることに反対したので、中退をして一時はフィリッピンに出稼ぎに行ったこともあった。背が高く体格がよくて、なかなかの美丈夫だったが、あまり商人には見えなかった。二番目の兄貴が特に商才があって香港でも名を知られていたが、多分、その兄貴の引き立てで財をなしたのであろう。よく招ばれて家内の実家でご馳走になったが、家には女中さんが六人もいて、食事をする時はまだクーラーのない時分だったから、クレオパトラが食事をする時のように、うしろに立って団扇で背中を煽いでくれた。ご飯のお代わりをする時だって、家内が自分で席を立つようなことはまずなかった。
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