二・二八事件のあと、私たちは国民政府のやり方に怒りを感じて、何とか台湾人のために独立の道をひらこうとして香港に集まり、廖文毅博士の指導の下で微力ながらも力を尽くしてきたが、すでに蒋介石は台湾に入ってしまったし、台湾の独立するチャンスは当分、先にのびてしまった。このあともしそのチャンスが来るとすれば、中共に攻撃されて蒋介石政府がこの世から消え去ってしまう時か、あるいは、アメリカがその戦略的必要から台湾を守り続け、蒋介石に率いられて台湾入りをした連中がすべて死に絶える時くらいしか考えられない。とすると、一敗地に塗れてしまった廖博士としては、作戦の切り替えもしなければならないし、少くとも香港に根拠地をおいていい意味はなくなっている。
おそらく廖博士としても、さんざ考えた末にマッカーサー将軍の君臨する日本へ動く決心をしたのであろう。私としても、この土地の娘と結婚したとはいえ、いつまでもこのまま香港にいることになるとは思えない。といって、廖博士について日本に行って勝算のない独立運動を続けるわけにもいかない。もちろん、台湾の人たちを蒋介石の虐政から救い出す仕事は今後も私たちの仕事である。汚れた手をここできれいに洗い落として、政治とか革命とかとは関係がなかったと言うつもりはない。グループとしてのつきあいはここで一ぺんおしまいにして、あとはお互いに同じ志を持つ者として、もっと長期戦で臨むべきだろうと私は自分に言いきかせた。
廖博士が発つ前の日に、私たち廖博士にお世話になった人やつきあいのあった人が廖家に集まった。私のように日本で勉強した者が日本に行って、廖博士が香港に残るならわかるが、日本語もあまり完全とはいえない廖博士のほうが日本に行くというのだから、なんとも割り切れない気持であった。
こうして独立運動に従事した人は香港にほとんどいなくなってしまった。廖博士はよく「孤掌難鳴」(片一方の手では拍手もできない)という言葉を使って、同志を集める必要性を訴えたが、一人だけ香港に残った私としてはまさか道化師のような一人芝居を続けることもできない。もし家内や私の喧嘩相手になった家内の親戚たちがいなかったら、私は香港に一人で住んでいられなかったかもしれない。
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