小説家への夢を胸に東京へ向かう

私は三ヵ月に一ぺんくらい、日本へ行くようになった。時間がたっぷりあったので、飛行機より船旅を選ぶことが多かった。まだ自分が急に落ち目になると思っていなかったので、プレジデントラインのファースト・クラスによく乗った。二十代の若さで、船の一等に乗っていると、人はどこのプリンスかと目を見張る。東京へ行って一番よくかよったのは昔の古巣である東大経済学部の研究室だった。事務主任の太田さんのところへ行って、昔の東大社研の友人たちの話をきくと、「一番足繁く来てくれるのは邱さんですよ。ほかの人はほとんど姿を見せませんもの」と言われたことがあった。まだ日本国中が食うや食わずの時代で、学者の生活はとりわけ苦しい時代であった。
東京から香港へ帰る時は、本屋にとびこんで山ほど新刊書を買った。二、三ヵ月香港にいる間、退屈をしのぐ必要があったからであった。『文藝春秋』『オール讀物』や『小説新潮』も買った。
目次をひらくと、どの雑誌にも檀一雄という名前が出ている。大学生の頃、知り合いになるチャンスがあったのに、我がまま言って尋ねて行かなかった人だったが、いまや押しも押されもせぬ大流行作家になっているのがわかった。しかし、その時はまだ自分が小説家になるとは思ってもいなかったし、のちに檀一雄さんのお世話で世に出るようになるとは考えてもいなかった。
香港から時々、東京へ旅行するようになってから、ある時、東京で王育徳君と一緒になった。
王君は私の世話でヤミ船に乗り、東京へ戻って元の東大文学部の中国文学科に復学し、間もなく同学部を卒業して倉石武四郎教室に残っていた。本人の話によると、東京に落着いてから台湾に残してきた奥さんと娘さんが観光ビザで上京し、親子三人で暮らすようになった。観光ビザは二ヵ月の期限になっており、二回切りかえることができるが、六ヵ月たつと切りかえがきかなくなる。自分は相変らずの不法滞在者だが、もし自分が自首して出て、居住権を認めてもらえば、妻子も自動的に居住が認められることになるはずだと考えて、警視庁に自分から出頭した。ところが、裁判所にまわされると、一審でも二審でも「強制退去」という判決が下されてしまった。ちょうどそういうピンチのさなかに私と行きあったのである。
「行く先があれば、日本にいなくともいいけれど、行く先がないんだよ」
と王君は真剣そのものだった。
「台湾の人はついこの間まで日本人だったのに、戦争が終わった途端に、お前らは今日から中国人だ、出て行けと言われても困るよなあ」
と私も相槌を打った。
「日本におらせてくれと言っても、何も国に養ってくれと言っているわけじゃない。台湾の政情が落着くまでそっと住まわせてくれと言っているだけなのに、裁判官だって事情がわかれば、なんとかしてくれるんじゃないかい。こうなったら、僕が君に代わって陳情書を書いてあげるよ」
そう言って私はその晩から夜を徹して裁判官あての手紙の形式で、「密入国者の手記」と題した五十枚ばかりの文章を書いた。
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