結果的にはこの短篇が私の処女作になったが、私はこの原稿を持って阿佐ヶ谷に住む元台湾日日新報の学芸部長だった西川満さんのところへ訪ねて行った。西川さんは台湾から引き揚げてきてから『キング』や『講談倶楽部』といった大衆雑誌に時々、寄稿をしておられた。私の直接知っている人でジャーナリズムと関係のある人といえば西川さんしかいなかった。
事と次第を述べて、私がどこか掲載してもらえそうな雑誌はないでしょうかときくと、商業雑誌に載せてもらうのはそう簡単にはいかないけれど、自分は長谷川伸先生の新鷹会という小説研究会に所属している。月に一回、研究会があるから、そこへ行ってあなたの代わりに朗読をしてみなの意見をきいてあげましょうと引き受けてくれた。
私はその足で香港に帰ってしまったが、追っかけるように西川さんから手紙が届いた。新鷹会であなたの文章を紹介したところ、君がどのくらい手を入れたかときかれ、いや、まったく手を入れていませんと言ったら、山岡荘八さんも村上元三さんも、この人才能があるかもしれんぞといって激賞していました。新鷹会の『大衆文芸』という雑誌にのせることにきまりました、どうもおめでとう、と書いてあった。あまりにも順調に事が運んだので、私は自分も嬉しかったが、すぐに王君に吉報を知らせた。王君は刷り上がった雑誌を裁判の折りに参考資料として提出した。
私の文章が功を奏したせいかどうかは私にもわからないが、最終審で王君とその家族の在留権が許可された。王君は明治大学教授になり、文学博士の称号を得て、最後は台湾独立運動に身を挺して一生を終わったのはずっとのちのことである。
私が西川満さんに礼状をしたためると、西川さんから、腕試しのつもりで「オール新人杯」に応募してみたらどうかと提案があった。香港には日本式の原稿用紙がなかったので、原稿用紙を送っていただけませんかとお願いしたら、「これは川端康成さんとか、坂口安吾さんたち、プロの使う原稿用紙です」と言って、満寿屋の原稿用紙を送ってくれた。その原稿用紙に「龍福物語」(のちに"華僑"と改題)百枚を書いて送ったら、九百何十篇かがあった応募原稿の中で最後の五篇に残った。私の大学時代の友人の兄貴が文藝春秋に勤めていて、その人の話によるとプロの使う原稿用紙を使って香港から送ってきたから、予選の記者たちが注目をして最後まで残ったのだそうである。真偽のほどはわからないけれども、さきに山岡荘八さんや村上元三さんから「才能があるかもしれんぞ」と持ち上げられ、腕試しで応募した第二作が九百何十篇の中の最後の五篇に残ったので、もしかしたら本当に自分は才能があるのかもしれん、と妙な自信ができた。
この作品は尾崎土郎さんと小山いと子さんに認められたが、あとの三人の審査員に反対されて、最後のところで選にもれてしまった。
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